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メギド72 旅立ちの日

 玉座なんて自分には似合わないとずっと思っていたし、なんなら今でもそう思っている。
 謁見の間、などと大袈裟に名付けられた部屋は施されたタイルの模様が見えないほど天井が高く、ドーム状に形作られているせいで音は異様に反響した。几帳面な石積みは強固で、鼠や賊の侵入をことごとく防いだが、わずかな隙間から流れ込んでくるペルペトゥムの乾いた風は黄色い砂を運び、掃除をする者がいなくなった途端、あらゆる場所で吹き溜まって小さな山を作った。
 人の声など聞かなくなって久しい。
 煮炊きの気配も、木剣が打ち合う力強い音も、突如始まる音楽も、グラスを打ち鳴らす音も、静寂の中に響くペンを走らせる音やページを繰る音、少し煤けた青い空の下にはためく無数の洗濯物、市井の人々の取り留めない会話、大通りや市場の喧騒、赤ん坊の泣き声、全部全部全部、遠い昔の夢のようだった。
 確かにここには都市があった。営みがあった。国があった。
 かつて異世界メギドラルとヴァイガルドを強固に結びつけた古き一族とそれを慕う人々の街。そして、最も新しいソロモン王が見事復活させた国。
 けれど、国は再び滅んだ。
 否、まだ王は玉座にある。然らばこれは完全な滅びではないと言う者もいるだろう。しかし、それには他ならぬ「王」自身が反論する。
 民なくして、営みなくして、何が王かと。
 ここにいるのはただの朽ちかけた「碑」である。役目を終え、それでもなお辺境の村に生きるただの少年に戻ることも、ただの人間として生きることも死ぬこともできなくなった、「何か」だ。
 その姿は彼がかつて世界中を旅していたときと寸分違わず同じだった。少年は王と呼ばれながら国を持たず、冠を戴かず、ときに人々に罵倒され、ときに大切なものを失い、けれど常に信頼すべき仲間に囲まれていた。その日々は彼にとって間違いなく幸福と言えただろう。喪失と憤怒と悲哀を繰り返し、それでもわずかな希望を胸に確かに前へと進むことが出来た。道筋を疑うことはあれど、決して歩みを止めようとは考えなかった。ただ、ひたすらに進む。その行く先にヴァイガルドの、否、三界のあるべき姿があると信じて。
 果たして、その本懐は遂げられたと言っていいだろう。
 元凶とも言うべき「彼女」を失ったメギドラルにはフォトンが溢れ、ヴァイガルドへの侵攻とそれに類する計画は次々に中止になった。ハルマニアはメギドラルに交戦の意思なしと見るやヴァイガルドからの撤退を決定し、できうる限りの遺物を回収して速やかに去って行った。
 ヴァイガルドにはかつてのようにヴィータだけが残された。その中には当然追放メギドたちも含まれていたが、メギドラルとの戦いが終了した以上、彼らもまたヴィータとして生きる他なく、己の処遇に異論を唱えられる者もまたいなかった。
 一人、一人と寿命を迎えた。
 不思議なことに長命者や不死者と呼ばれていた者たちでさえ、数百年の長い年月をかけて、ゆっくりと老い、死んでいった。
 その過程でいつの間にか姿を消した者もいれば、ソロモン王自ら最期を看取った者もいれば、葬儀に花を添えるのみとなった者もいた。
 死んだ肉体は大地へと還り、放たれた魂は循環する。
 ヴァイガルドの古い言い伝えに則れば、誰であれ巡る。けれど、かつて自分がメギドだったと語るヴィータはやがてどこにも、ソロモン王の前にさえも現れなくなった。門は閉ざされ、切り離された異世界のことはまるでわからない。それでも、世界が平和なら、安寧を抱いて、人々が笑っていられる世なら構わないと、かつて世界を救った王は人知れず玉座に座り続けた。
 暑くもなく寒くもなく、腹が空くこともなければ喉の渇きをおぼえることもなく、眠気も疲労も感じない。それは実に幸福なことのように思えたが、実際身をもって体験してみると真綿で首を絞められるような単調で緩やかな苦しみだけが日々を支配した。
 来る日も来る日も王は玉座にあった。
 変わるのは昼と夜の明暗だけであり、やがてそれすら感じるのが億劫になってまぶたを閉じた。
 王は眠っているようだった。
 少年は眠っていた。
 夢の中でかつての冒険の日々をひたすらに反芻する。幸いにして思い出すことは山ほどあった。身を切られるほどの辛さも、煮えたぎるほどの怒りも、過ぎ去ってしまえばただ遠い事実でしかない。反して甘いだけの優しさや生ぬるいだけの感動は時として少年を苦しめた。思い出が幸福であればあるほど、もう二度とその日々は戻らないと思い知る。
 ここには誰もいない。
 悪魔や天使と呼ばれる者たちが当たり前に隣人であった時代は去り、世界は人間の「世界」と化した。神秘は薄れ、神話は滅び、不可思議は消滅しかかっている。時代に取り残された王だけが一人、無人の都の中央に座す。ああ、それはなんて惨めで。ひどく、滑稽な話だった。
 それは風のない、殊更静かな夜に多かったように思う。
 謁見の間にある美しい池の水面がさざめくように揺れることがあった。かつてはそれに期待することもあったが、度重なる肩透かしにもはや期待自体が倦んでしまった。
 何しろこれは「門」だ。
 ソロモン王と契約したメギドたちだけが通過できるように王自ら細工を施した。どこからでも、いつでも、仲間たちはソロモンに会いに来ることができた。臣下や一部の仲間たちは予期せぬ悪用を恐れたが、ソロモンは門の仕様については頑として譲らなかった。そして、結局恐れていた事態が起こることはなかったのだ。およそ千年。今日、この日まで。
 異変にはすぐに気が付いた。
 水面が揺れる。ざざざと風のような、砂のような音を立てて渦を巻く。ソロモン王は目を開けた。崩れた天井から差し込む月明かりが少年の紺碧の髪を、褐色の肌を、金色の瞳を煌々と照らしていた。水が、形を成す、意思を伝える、歪み溶けて弾み、門としての体裁を成そうとする。あたかも自分の役目を充分に認識しているかのように。
 果たして、そこには水面から鎌首をもたげるように半身を覗かせた巨大なメギドの姿があった。
 忘れもしない大きな紫電の瞳、あまりにもおぞましく鋭い乱杭歯、半透明のひれはゼリーのようで、その身を覆う鱗はときに銀であり紫であり、外骨格のごとき金色のパーツは計算し尽くされた装飾のように全身を覆っていた。
「…………」
 咄嗟のことに声なんて出ない。喉も舌も喋り方を忘れていた。ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のように口を開け閉めする少年に異形の悪魔は何を思ったのだろう。滴る水が水面に落ちる度にぽたっと懐かしい音がする。水、水、水。雨期を失って久しいぺルぺトゥムにおいて、終ぞ聞くことのなかった雨音。
「シンユウ」
 鼓膜に届いた音を声だと認識するのには少し時間が必要だった。それは男性にしてはひどく柔らかで、常に包み込むような安心感を与えてくれた彼の声とはまるで違っていた。そうか、だから。思い当たる節がある。彼は決してメギド体のときに口を開こうとはしなかった。それはヴィータである自分と意思疎通できるだけの発声器官がないからだと思っていたが、ひょっとして思い違いだったのかもしれない。何しろ彼のことだから。蘇る数々の思い出に久方ぶりに心が動くことを実感する。自信に満ち溢れ、自らを天才と標榜し、初対面でソロモン王を親友と呼んだ彼。
「シンユウ、ヤットアエタ、ヤクソクヲハタシニキタヨ」
 ヤクソク、やくそく、約束?
「サア、タビニデヨウ。キミガノゾムナラ、チノハテダッテ、ウミノソコダッテ」
 旅、そうか旅だ。晩年に至るまで彼が繰り返し語った夢。玉座に縛られた少年が終ぞ叶えられなかった願い。それを今更実現しに来てくれたというのか。
 男はとある教団の教祖としてそれなりの地位とそれなりの破滅を残して死んだ。ソロモン王もその知らせを受けた日のことをよくおぼえている。けれど、間違いない。自分のことを親友と、変わらず呼ぶその声、その姿、その歪んだ魂。まさしく。
「……フォルネウス」
「ウン、ナンダイ、シンユウ」
「……ふふっ、すごい声だな。怪物みたいだ」
「キニナルカイ?」
「いいや。フォルネウスはフォルネウスだし」
 声ぐらいなんとも。そう告げれば彼は嬉しそうな顔をしたようだった。
 玉座から立ち上がる。もう離れることもないと思っていた座面から腰を浮かし、二本の脚で立つ。身体が重い。けれど、心は高揚していた。だからだろうか。ほんの数十歩、鉛のような足を引きずって、辛いだけのはずなのに、羽根のように軽やかな足取りで少年はかつての悪魔の元に辿り着く。
 その巨大な頭に縋れば海の匂いが鼻先を掠め、氷のように冷たい鱗になけなしの体温を奪われた。どうしてもそうしたくなって、大きな眼球に唇を寄せる。少し塩辛い気がしたのは気のせいではないかもしれない。なぜか、ずっとこうしたかったような気がした。
「ドコヘイコウカ、シンユウ」
「お前と一緒ならどこへでも」
「ソレハボクモオナジキモチサ」
 足を踏み出すその一歩。わずかな浮遊感。冷たい感触。けれど、その腕を掴むものがいる。かつての姿と今の姿、そのどちらも彼と認識して初めてソロモンは大いなる幸福感に満たされる。待っていた、待っていた、他でもないお前を。譫言のように繰り返せば、深く暗い海の底、眩い光の目をした異形が誰よりも優しく微笑んだ気がした。

***

 やがて世界の果ての果て、かつてあったという異世界とを繋ぐ都市、辛うじて唯一建物があったと伺える場所にとっくに干上がった池の跡。そこには朽ち果ててぼろぼろになった五つの指輪と巨大な鱗のような断片が砂に埋もれることもなく、ひっそりと残されていた。

2019.10.06

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