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メギド72 炎天下のたまご

 アジトが存在する森はよく生い茂った木々に覆われ、その隙間を縫うように湧き出る泉と小川に恵まれ、常に涼やかな風が吹いている。周囲を山々に囲まれ、荒野からも砂漠からも程遠く、更にある程度の高地にあるせいで真夏でも比較的過ごしやすい。
 だから、ちょっと浮かれていたのだ。
 ギラギラと照り付ける太陽はペルペトゥムの苛烈な日差しにも似ていたし、ぐんぐんと上昇する気温は東方で体験した蒸し風呂にも似ていた。屋敷の中は場所によって多少外よりはマシだったけれど、大きな窓ガラスは光を集約して室内を温めるだけの装置と化し、火を扱う厨房ではたまらず音を上げる者が続出した。
 ちょっと類を見ないほどの暑さは日常の中の非日常だ。子供たちがぽいぽいと服を脱ぎ捨て、汲み上げた井戸水で水遊びをするようになるまでそう時間はかからなかった。ソロモンはといえば倉庫で主に幻獣由来の素材の整理に朝から掛かり切りになっていたのだけれど、外から聞こえてくる楽し気な声に気もそぞろもいいところで、結局一緒に作業していたフォカロルにため息交じりで休憩を言い渡されてしまった。己にも他人にも厳しい彼にしては珍しい温情で、それもソロモンの浮足に拍車をかけた。要するに。
「熱中症です」
 アジトに程近い森の中、木陰に寝かされたソロモンの額には濡らされた布。目許まで覆われたそれのせいで彼女―バティンの表情は見えない。いや、見えたところで常と変わらぬ鉄壁の無表情を貫いていることは間違いないのだけれど。
「……ごめん」
「謝るくらいなら倒れないでください。どうせ昨晩も夜更かししていましたね?寝不足は万病の元だとお伝えしたはずですが」
「う」
「……はあ。しばらくここで寝ていてください。屋敷の中も暑いですから」
 そう言って、わずかな衣擦れと草を踏む音を残して彼女は立ち去った。
 あとには風が揺らす梢の音しか聞こえない。先程まで遊んでいた子供たちの声もなく、ソロモンが倒れたせいで楽しい時間が中断となってしまったことを本当に申し訳なく思う。特にジズやベヒモスは何が起こったのかもわかっていなかったようだし、あとで謝らないとな、と安静の命令を順守して思考のみを働かせていた、そのときだ。
 再び足音。今度は近づいてくる。
 バティンが戻って来たのかと思ったが違う。彼女より歩幅が広いし、その足取りもゆっくりだ。土を踏みしめる靴裏に重みがある。それからこつこつと地面を一定の間隔で打つ何か。ロッドか槍の柄か。武器を持っているなら敵意があるのか。
 緊張が全身を駆け巡る。けれど、それは次の瞬間耳に飛び込んできた柔らかな声色によってあっという間に霧散した。
「やあ、親友」
「あ、フォルネウスか!」
 慌てて目許の布を取り除けば、案の定金色の髪を苛烈な日差しに晒した一人の青年が立っていた。この暑さだというのに首元まで覆う衣装に一分の隙もない。なんなら顔にも汗一つかいていないのはメギドの不思議な能力か何かなのだろうか。疑問には思えど、尋ねてもうまく誤魔化されることは目に見えていた。決して寡黙なわけではないのに、目の前に立つメギドは軍団の中でも謎多き人物の一人だ。
「聞いたよ。熱中症だってね」
「面目ない……」
「いやいや、彼女も軽症だと言っていたし。このよくわからない気候じゃ、はしゃぎたくなるのもわかるよ」
 フォルネウスも?と目を見開けば、彼はいつもの愛嬌のある顔でうん?と首を傾けた。聞こえなかったのか、答えたくなかったのか。その判断は未だソロモンには困難を極める。
「気分はどうだい?ひどいようなら屋敷まで運ぼうか?」
「いや、だいぶいいよ。もう起き上がれるくらいだ」
 言葉通り上半身を起こせば、片膝をついた男はまじまじとソロモンの顔を覗き込み、頷いた。自分では自覚もないが、どうやら顔色も元に戻ってきたらしい。少なくとも碧眼に映り込んだ少年を、彼はいつも通りの「親友」だと判断したようだ。何かを思い付いたように膝を叩く。
「そうだ。ボクにフォトンを回してくれないか?少しでいいから」
「フォトンを?」
 突然の申し出に何事かと思えど、その完璧と言わざるを得ない男の笑みは不安や懸念を根こそぎ奪っていく。悪いようにはしないだろう、というのは信用から来る確信でもある。しかし、なぜか無性に「そうしたくなって」、結局ソロモンは言われたとおりにフォトンを送った。大地の恵みとも呼ばれるエネルギーが彼の中に溶け込むのを視認すると、彼もそれを察したらしい。満足そうに微笑んで立ち上がると、如才のない動きで装飾が施された杖を軽く振るった。
 途端、空気が震えた。
 危険な感じはしない。けれど、何かがさっきまでと明らかに違う。熱が下がるような、奪われているような、そうしていつの間にか目の前に青い青い「海」があった。
 否、それは正確に言えば海なんかではない。ただの水の塊だ。巨大な球体を象った水が空中にふわふわと浮いている。先日、ジズやブエルが遊んでいたシャボン玉に似ているな、と一瞬思った。けれど、思考はすぐに激流に飲まれたように回転し、横揺れし、逆転する。
 実際、ソロモンはいとも簡単に水の中に囚われていた。
 いや、そんな物騒な表現は正しくない。どういう仕組みかわからないが、ソロモンの呼吸はしっかり確保されていたし、重力から解放された世界は何もかもが浮ついて心地よかった。何より触れる温度、吸い込む空気、そのすべてが。
「涼しい!」
 水の流れが肌の上をすべる度、ひんやりと熱が奪われる。液体を通して見る空はぐにゃぐにゃと歪み、けれどその青さはより一層際立つようだった。
 ゆえにおそらく、その巨大な瞳はソロモンの目に一際美しく映ったに違いない。
 柔らかく揺れる半透明のヒレはドレスの裾にもレースのカーテンにも似ていた。深海魚と言うよりも巨大な蛇。頭から尾の先までいっぺんに視界におさめることはできず、薄青、紫、紺色と複雑に変化する軟体を補強するように縁取る外殻の金色。大きな牙のようなものがずらりと並んだ巨大な口。頭部にある金色をした無数のヒレは王冠のようにも見えた。そして、何より爛々と光る大きな目はかの青年と同じ色を成す。
「フォルネウス」
 ソロモンの声に青年は応えない。あたかもここにいるのはただの怪魚に過ぎないとでも言いたげに普段の雄弁さはなりをひそめ、黙してただエラ呼吸を繰り返す。
 ソロモンも彼の発言を強制したりはしない。空中に浮かぶ水中で漂うという稀有な経験にただ身を任せる。すでに倦怠感や頭痛は遠くに去り、頭の中心まですっきりとした心持ちだった。足元が覚束ないことは不安なことばかりだと思っていたけれど、これは決して悪くない。何よりこの小さな海には彼がいる。溺れる心配など微塵もないし、時折彼のヒレによって起こる水流は心地よい揺れをもたらした。まるで、揺り籠のような。
「こんなところから生まれてくるのかな……」
 誰も彼も何もかも。
 心なしか、彼が驚いたように見えた。戯れにヒレの先へと手を伸ばす。触れた半透明のそれは思っていたよりも強靱な弾力を掌に返した。

2019.09.01

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