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メギド72 昼下がりのエンドルフィン

 長方形に切り取られた午後の日差しが飴色に磨かれた床板を照らす。ソロモンが両足のつま先を交互に蹴りあげる度に廊下の端に降り積もった埃がふわりと舞いあがった。
 王都エルプシャフトから遠く離れた山間地帯。元々超幻獣と呼ばれる強大な幻獣に対応するための騎士団の詰め所として存在していた建造物は、瀟洒でありながら頑強な造りをし、なおかつ広大だ。
 ソロモンたちがこの場所をアジトとして借り受けた際にはすでにその役目を凍結され、相応の年数が経過していた。最低限のメンテナンスのみで維持されていた建物は傷みこそ少なかったものの、各所に経年による劣化が見られ、設備は不足していた。ここを拠点とし、日々の生活や作戦行動を行っていくためには少なからず補修が必要だったのだが、ヴァイガルドを股にかける冒険の合間に手を付けるにはいささか骨の折れる話だ。仕方なく必要最低限の対処のみをし、だましだまし過ごしているうちにどんどん仲間も増え、アジトに常駐するメンバーが一定数を超えるようになると、今度は彼らから不満が噴出した。
 不便だ、とアジトを空けることの多い前線組以上に切実な声は無視するには忍びないほどとなり、よって以降はアジトの改修や設備増強は個人の自由に任せることにした。アジトの主であるソロモン王の許可も不要だ。ただし、他の仲間たちに迷惑をかけるのは厳禁。そんな曖昧な規則でもなんとかやっていけているのは、ひとえにここに集ってくれたメギドたちの人格によるものだろう。
 種ではなく個としてのみ存在する彼らは個として尊重されることを何よりも重要視する。好きにしてくれって言われたから逆に自制が効いているのかもね、とは吟遊詩人の弁だが、なんにせよ彼らの王としてまだまだ未熟な自覚のあるソロモンとしては有難い話だった。無論、一方でそんな協調性や連帯感というものをまるで意に介さない自由気ままなメギドたちがいることもまた事実なのだけれど。
 今、ソロモンが足を向けているのはおそらくそんなメギドの一人である、アンドラスの自室だ。
 彼のアジトでの主な定位置は医務室か図書室か居住空間と実験室と解剖台と資料庫が渾然一体となった自室のいずれかだ。ゆえにソロモンが彼とアジトで遭遇する確率はそれなりに高かったのだけれど、自室に赴くのは実は今日が初めてだった。
 彼の部屋は広大な敷地を誇るアジトの中で最も北の建屋に位置していた。普段はあまり人も立ち寄らないような空き部屋や物置が並ぶ部屋の並びに忽然と現れる真新しい扉。木目まで清々しいそれはアンドラスの入居にあたり、新調された建具の一つだ。
「アンドラス、ソロモンだ」
 二回のノックののち、開いてるよ、とくぐもった声が分厚い木板を通して聞こえてきた。その言葉を入室許可と解釈し、ソロモンは金色のドアノブを回す。
 途端、廊下とは異なる空気が鼻先にむわりと押し寄せた。
 乾燥させた草の匂いに焦げ臭い何かが混じり、ツンと刺すようなアルコール臭に古いインクと紙の匂い。アジト内にある他のどんな部屋とも違う臭気とその複雑さに戸惑う暇もなく、目に飛び込んでくるのはインク瓶やペンとともに何かに走り書きがされた紙が無数に重なった作業台。壁に沿うように作りつけられた本棚にはぎっしりと本が詰め込まれ、その隣に並んだ戸棚にはガラスや陶器でできた器具が整然と並ぶ。壁には昆虫の標本、幻獣なのかただの獣なのかわからぬ生き物の剥製。部屋の隅には煙突付の標準的な暖炉。窓の下には簡易的な水場と鍵付きの戸棚が置かれ、薬品の類はそこで厳重に管理されているようだった。
「やぁ、遅かったね」
 当の部屋の主人は三部屋を連結させるために壁に取り付けたドアの向こうから悠然と現れた。医者というよりは研究者あるいは蒐集家といった風情の彼は、くすんだ緑色の布で装丁された本を手にしている。ソロモンの視線がそちらに集中しているのに気が付いたのだろう。彼はそのままの足取りでやって来ると、ぽんとそれを手渡してきた。
「キミが読んでいた薬草図鑑の入門編だ。この近辺でも多く見られる草木が多いし、毒の有無や図説もわかりやすいと思うよ」
 なめし革に金の箔押しが施された重厚な表紙を開き、目次を飛ばして、パラパラとページをめくる。すると、アンドラスの言う通り、この手の本には珍しく彩色された図が多く掲載され、何より図書室で読んだ応用編よりも随分見慣れた植物が多い。
「ありがとう、アンドラス!確かにこっちから読んだ方がよさそうだ」
「それはよかった」
「これ借りてもいいか?それとも持ち出さない方がいいかな?」
 小口に多少手垢が付いているが、表紙から裏表紙に至るまで傷や染みは一切なく、それどころか年数を重ねた革製品特有の色合いから随分大事にされてきた本だと窺える。間違いなくアンドラスの私物だろうし、手元から離れるのも心許ないかもしれない。そう思い、分厚い背表紙を撫でながら尋ねると、アンドラスは例の長い指をしばし唇に当てて思案したのち、うん、と一人納得したように頷いた。
「そうだな、ここで読んでいくといい」
 それ使ってくれ、と指さされた一人掛けの椅子に遠慮なく腰掛ける。思っていた以上に尻が沈み込み、驚いてクッションの具合を確かめていると、アンドラスはアンドラスで何やらカチャカチャと棚を探っていた。雑然と見えてもそこには彼なりのルールがあるのだろう。やがて彼はその手にガラス製のコップのようなものをいくつか選び出し、無造作に作業台の上に置いた。
 続いて踵を返した彼が取り出したのは山のように積み上がった紙の束の間から、なんの脈絡もなく出てきたように見えた紙袋だった。かさかさと音が鳴るそれの口を開き、一番大きなコップに中身を振り入れる。すべり出てきた植物の破片のようなものはガラスの底に当たってカラカラと音を立て、アンドラスは暖炉の中で半ば灰に埋もれていたやかんを手に取る。
 ここまで来てようやくソロモンは彼が茶を淹れようとしていることに気が付いた。その手順が普段から見慣れているアリトンのそれとは似ても似つかぬせいで、結論に到達するまでに時間がかかってしまったのだ。
 手にした本には目もくれず、自分をじいっと見つめている視線に振り向くのは蜜色の瞳。午後の日差しにも似た虹彩はいつだって揺らぐことなく存在している。常に、そこに。
「ああ、これかい?茶を淹れようかと思ってね」
「意外だな……そういうの興味ないと思ってた」
「俺だって茶ぐらい淹れるさ」
 ソロモンの物言いも意に介さず、彼はやかんの中身をガラスコップに注いだ。途端にふわりと鼻先をかすめる不思議な香り。湯の中で乾燥しきっていた植物の欠片ははらはらと元の形を取り戻し、芳香は一層室内に広がった。
「五ページと七十八ページ、それから百五十六ページ」
「え?」
「その本に載っている草花で作った茶葉だよ。この辺りに自生してるんだ」
 慌ててページを繰れば、確かに森の中でよく見る薄黄色の花や開けた土地で群れなして揺れる特徴的な形の葉を持つ草が描かれている。そこに付与された情報を読み込む。名前、その由来、一年草か多年草か、自生地、花の咲く時季、種の形、栽培に適しているか否か、毒性の有無、薬効。
 やがて黄金色に抽出された液体は彼の手によって速やかに上澄みのみが別のコップに注がれた。熱いから縁を持ってくれ、と言われ、素直にそれに従う。湯気の上がる水面に息を吹きかけ、気持ち冷めたところで慎重に口を付ける。
「うまい……」
 思っていたような青臭さや苦味はない。それどころか、ほのかな甘味は口の中いっぱいに広がり、なおかつ草原の風のような軽やかな香りは鼻からすっと抜けていく。それが嚥下と共に胃の腑に落ちていくと心の底から安堵感が広がった。今まで飲んだことのない複雑な味、けれど美味であることには違いない。
「効能は微小な鎮静作用に血流促進……要するにリラックス効果だね。毒にも薬にもならない。多用しても大した影響はない」
「またオマエはそういう……」
「ただ、この黄色い花。これと葉の形は異なるにせよ、よく似た花がある。自生地もほぼ同一で、それなのにそちらは神経毒を含んでいる」
「え」
 アンドラスが指さしたのは湯によってほどけ、コップの底に開いた花だ。森ではよく見かける色合いと花弁。ソロモンは当然それらが同じ種だと思い込んでいたけれど、どうやらそう単純なことではないらしい。
「間違えて摂取すれば、普通の人間なら一口で死に至る……キミが学ぼうとしているものは、そういうものだ」
 思わず膝の上に置いた本をつかんだ。
 ソロモンが薬草について知りたいと思った動機は単純で、街の花屋で花の実が薬になることもあると聞いたからだった。確かにソロモンが稀にメギドたちに所望されて作る薬膳スープには森で採れる薬草や水辺に自生している豆が使われている。知らずに取り入れているのなら、知識があればもっと活かすことができるのではないか、と。ある意味、安易な考えであったことは否めない。人が食用や鑑賞のために手をかけて育てたのでなく、自然の中でたくましく繁殖する草や花や果実は人にとって都合のいいものばかりではない。ときに著しい害さえ与えうる。そんな簡単なことにさえ気付けないようでは。
「ごめん、俺、簡単に考えてた」
「学ぶことは大事さ。ただ、人体に作用するものを取り扱う以上、慎重さが必要になるというだけの話だよ」
 そう言ってアンドラスは静かに茶を啜った。ソロモンもほどよく冷めた同じ液体を口にする。
 暖炉の中に築かれた灰の山が崩れ、ひそむように燻る炎がぱちりと鳴った。窓ガラス越しに差し込む午後の日差しが柔らかい蜜色をして部屋の中を包む。空中を漂う塵の粒はきらきらときらめいて、目を細めた彼が眩しそうに窓の外を見た。
「この部屋はこの時間帯しか日が差さないんだ」
 するりと視線が動く。常に笑っているような口元がいつもと違う様子で緩み、まるで内緒話をする子供のようにどこか浮ついた声色で囁く。
「そこは特等席なんだ。今日はキミに譲ろう」
 学ぶのであれば慎重に、手を貸すことは惜しまないから。
 わかりにくい男の目は珍しく雄弁に、そう語っているようにソロモンには感じられた。


2019.07.28

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