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メギド72 氷点下のさかな

 ただでさえ氷点下に達しようかという水温は下がり、全身を均等に苛む水圧はどんどんと強くなる。尾びれが巻き込んだ氷の欠片は回転しながら水面へと逃れるが、それに反するように底を目指す。下へ、下へ、もっと日の光の届かぬところへ。暗闇に最適化された虹彩には曇天からこぼれる薄日さえ眩しい。昏く、一遍の日の光も差さぬ海底こそがこの一柱のメギドにとって最も安らげる場所だ。
 エラを通して取り込まれる酸素が重みを増す。すれ違う生き物たちは徐々に色彩を失い、姿形はグロテスクになっていく。その筆頭が他ならぬ自分自身であると「彼」は理解している。
 メギドラルの豊かな海の果ての果て。誰も寄りつかぬ冷たく深い水底で生まれ落ちた個体。海魔フォルネウス。その名を認識するものはまだ、彼自身を除いてこの世界にもいない。
「……メギド体の習慣を引きずってるの? それともただの奇行?」
 水を打つような冷ややかな声にしばらく彷徨っていた思考の海から浮上する。
 覚醒と同時に現状を確認。絶え間なく続けられていた呼吸に異常はない。ここはメギドラルでも深海でもなく、フォトンあふれる大地ヴァイガルドであると「過去」に偏りがちになっていた認識を修正。現在の姿は強烈な水圧や低水温にも耐えうる、深海魚に酷似したものではない。太陽の光に似た金色の髪、白皙の肌にアイスブルーの瞳。年の頃は二十代半ば、青年期。その容貌は人を惹きつけ、その声色は落ち着いて思慮深い。頭脳はおのずと明晰で、ヴィータとして生まれ変わったのちでも、その頭角は隠しきれない。
 自覚している事項が事実であることの再確認が完了する。エラーは一つもない。ここにいるのは「フォルネウス」に相違ない。
 目の前に半眼で立つ少女を改めて見遣った。
 顔立ちには幼さが残っているが、琥珀色の瞳は妙に達観している。うねうねと癖のある髪質を、本人は厄介に感じていると小耳に挟んだことがある。胸元を飾る大きな青いリボン。戦場で会うときは常に携えている三つ叉の大きな槍を手にしていないのはここが彼女にとって安らげる場所、アジトだからに他ならない。無論、それはフォルネウスもまた同じではあるのだが。
「やあ、キミはウェパル……だったかな?」
「質問に答えて」
 切り込むような言葉に容赦はない。彼女はフォルネウスとの対話を望んでいない。それならば最初から話し掛けなければいいのにとも思うが、それは彼女の律儀さが許しはしないのだろう。
 聡明で繊細で頑固。そんな分析も付け焼き刃だ。フォルネウスは彼女の望む答えを用意できるほど彼女について知るわけでもない。知りたいわけでも、ない。
「見ての通り……氷だね」
 よって極めて簡潔な返答に終始する。実際アジトの一角、バーカウンターに据え置かれた一脚に腰掛けたフォルネウスの目の前にはガラスの器に盛られた氷があった。概ね一口大に割り砕かれた透明な固体は地下の氷室にある大きな塊から拝借してきたものだ。すでに常温に晒されることにより、角が取れて丸くなったそれをフォルネウスは黙々と口へと運んでいた。無論、今は彼女との会話によってそれは中断しているのだけれど。
「それは見ればわかるわ」
 では何を、と問い返すことも躊躇する。彼女の瞳は猜疑心に満ちていた。誰も彼も信用しないのではない。それでは野に生きる獣と同じだ。彼女は「フォルネウス」を、目の前にいるメギドを明確に警戒している。なぜかはわからない。けれど、曖昧に振り払うのもそれはそれで憚られた。たとえ、どんな禍根があろうとも今は同じ軍団に所属するのだ。妙な波風は立てたくない。
 しかし、彼女はフォルネウスを逃がしてくれそうになかった。幸か不幸か常ならば人の気配があるホールはがらんと静まり返り、仲裁に入ってくるような人影もない。
 これはいよいよ困ったなとフォルネウスが眉尻を下げたちょうどそのときだ。場にそぐわない明るい声が二人の間に割って入る。
「フォルネウス! アジトに来てたのか。それにウェパル? 珍しいな、二人が一緒にいるなんて」
 何話してたんだ? といつも通りの穏やかさで語りかけて来た親友に安堵する。
 彼こそが軍団の長にして、魔を統べる者、ソロモン王その人。彼を前に剣呑な空気を出し続けるほど、彼女も愚かではない。
 案の定、その表情を盗み見れば不機嫌そうな雰囲気を隠そうともしていなかった。軍団の中でも真に古株と言える彼女だ。取り繕うほどの仲でもないということだろう。
「ソロモン、あんた」
「あれ?」
 ウェパルの声を遮るように彼の声が耳に届く。ふと顔を向ければ底光りする金瞳がじっとこちらを見つめていた。いつか、何かこれに例えるものはないかと物思いに耽ったことを思い出す。けれど、ああそうだ、そのときも結論は出なかったはずだ。何ものにも代えがたい、力強い光を秘めた、彼だけが持つもの。それはまさに。
「ひょっとして具合悪いのか?」
「えっ」
 思わず声をあげたのはウェパルの方だった。フォルネウスが認識できたのは自身の顔に伸びてくる右手と思いの外それを避けようとも思わない己の精神状態だった。指輪をはめていない、ただの少年の手がフォルネウスの額に当てられる。冷たくて気持ちいい。その違和感に気付くのは一瞬で、それは彼も同じようだった。自らの感情に従い、驚きをもって見開かれた目が、この戦いの最中にあっても彼が歩んできた豊かな半生を想起させる。
「あつ! すごい熱だぞ!?」
「……そうだね。言われてみれば」
「ね、熱……だから氷だったわけ?」
「ウェパル! 悪いけど」
「はいはい。バティンかアンドラスでしょ」
 探して連れてくるわ、と気の抜けた表情で彼女はホールを出て行く。
 ソロモンはといえば、相変わらずフォルネウスに目線を合わせ、ゆっくり立つように促してくる。その指示に素直に従えば、両脚の裏が床へと着地した途端、ふらりと視界が傾いだ。どうやら自分で思っているよりも重症らしい。
 気が付けば椅子の背もたれに預けたのと反対の手は少年に取られていた。彼は歩けるかと問い、反射的に頷く。
 まるで子供のように彼に手を引かれて歩く。先立って進む彼の横顔は悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。それがどうしてなのか、フォルネウスには想像もつかない。否、本当はわかっている。彼の悲しみを、怒りを、わかっていないふりをしているだけで。
 手袋ごしに伝わる体温は冷たい。いつもと逆だなと、ふと思う。常であれば彼の体温の方がうんと高い。子供体温というわけではないだろう。きっと自分の持つ温度が常人より低いだけだ。氷点下の海の底に棲まう奇っ怪な魚の姿を身の内に秘めたフォルネウスはきっとその本性の幾つかをヴィータの身体にも反映させてしまっている。だから。
 夕暮れ近付く時分、格子窓から差し込む橙色の光が廊下を淡く染めていた。どこへ向かっているかはなんとなく察しがつく。広いアジト内においてフォルネウスが普段使っている部屋だ。
 彼は恐ろしいことにメギドたちがどの部屋を使っているのか大体把握していた。フォルネウスのように部屋の扉に自己主張一つ掲げぬメギドであったとしても、だ。
「ねえ、親友」
「フォルネウス、」
 彼の歩みがぴたりと止まる。気が付けば予想通り自室のドアの前にいた。頭蓋骨の内側を叩くような鈍痛が始まり、吐く息は重く熱い。けれど、そんなことよりももっと。もっと大事なことがここにある。金色の目。なにものにも代えがたい、唯一無二。
「俺はフォルネウスからしたら、頼りない、ただの子供かもしれないけど」
 うん。いや、そんなことはない。
「でも、困ったときくらいは俺を頼ってほしい。俺は、俺だってフォルネウスの親友でありたいと思うし」
 キミは充分よくやっているよ。だって。
「それに……って、フォルネウス!? だいじょう……うわ、あつっ!」
 以降の記憶はフォルネウスにとって非常に曖昧だ。
 けれど、夢か現か久しぶりに波間を漂う感覚を得た。熱にうなされているわりに、それは大層穏やかで、柔らかで、結局丸一日寝込んだ末に彼が最初に見たものは枕元で穏やかな寝息を立てている親友の姿だった。
 まぶたによって隠された金色を思い、魚は憂う、笑う。涙は流さない。そういうものだから。
 ただ、そっと指先を伸ばして触れた少年の手は、いつも通り、焼きごてにでも触れたかのように熱かった。

2019.03.31

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