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現代帝都 犬も歩けば雨に降られる

 狭山流雨子(さやま るうこ)の記憶の中の母はいつも泣いていた。
 喚くわけではない。感情をぶちまけて、怒りや悲しみや不条理や、何もかもを捨てて流して、どうにかまた歩いて行くような、そんな前向きな涙の流し方ではなかった。しとしとと、じっとりと、あるいはべっとりと。感情を殺すように母は泣いた。
 母がさめざめと泣く様は最早流雨子にとって日常の光景だった。父が出て行った日も祖母が亡くなった日も仕事を失った日も病院から向精神薬を処方された日も母は泣いていた。母はいつだって自分のために泣いた。徹頭徹尾、彼女の世界には彼女しかいなかった。
 だからだろう。布団の中で静かに呼吸をとめた母を見たとき、流雨子はなんの感慨も抱かなかった。
 その死に顔は見慣れた母の泣き顔で、ああこの人は呼吸も心臓も止めてなお泣くのだなと感慨深いものを感じると同時に無力感というものを心底思い知った。
 だって、母にとって自分は「なんでもなかった」のだ。
 こうして簡単に手放してしまっても惜しくないほどに。こうして、置き去りにして、永遠に離ればなれになって、現実の面倒なことを全部押しつけて、勝手に一人で死んで、なんの未練も罪悪感もないくらいに!
 その日からどういうわけか雨が降りやまない。
 まるで流雨子の涙の代わりになるかのように。自宅はおろか、出勤しても買い物に出かけても、流雨子のいるところには雨が降り続いた。初めは偶然通り雨が続いているのかとも思った。しかしながら、それはどう考えても自然現象ではあり得ない。
 何しろ流雨子を中心とした半径十メートル程度のごく狭い範囲にのみ雨が降るのだ。そして、流雨子がその場所にいる限り降雨は続く。逆に流雨子が移動すれば、少し遅れて雨もついてくる。流雨子は傘が手放せなくなった。
 数度は偶然だと言って誤魔化せてもやがては不信が募る。流雨子は仕事を辞め、貯蓄を切り崩しながら、母が残した唯一の財産と言ってもいい自宅に引きこもった。幸い帝都の外れも外れ、未だ田園風景が電信柱の合間に残る住宅街に建つ古い家は雨の範囲をすっぽりと包み込んでいた。
 というよりも、そもそも雨が流雨子の自宅の敷地に合わせて降っていたのだろうか。トタンの屋根を雨粒が絶え間なく叩く。雨がやまないせいで三和土は苔むし、猫の額ほどの庭は草むしりが追いつかないほどの緑が生い茂った。
 薄日しか差し込まぬ毎日にカーテンを開けるのも億劫になった。真新しい骨壷は薄暗い仏間で白く輝き、線香の匂いは肺の奥まで蝕んでいた。頰を押し付けたぺしゃんこの座布団は黴くさく、限りなく床に近い視界には埃の塊がいくつも映った。伸びた足の爪の先が畳の繊維をかすめ、耳障りな音をたてる。それ以外には雨音しかしない。自分の呼吸音さえ、今はもう遠い。
 なんとなく、自分はこうして死んでいくのだろう、と思った。生ものがうだるような気温と湿度によって腐り落ちていくように、どろどろと、醜く汚いものになっていく。一顧だにされない人生。それこそ、我が一生に相応しい。我ながら後ろ向きにもほどがあると思ったが、真実なのだから仕方がない。それにもう、きっと、そのときは近いのだ。
 母が亡くなってからおよそ二週間。仏壇に供えられた白菊も枯れ、流雨子が緩やかな死を改めて認識したそのとき、唐突に来訪者を告げる玄関ブザーが鳴った。
 新聞は母が死んだ翌日にやめた。水道ガス電気の取り立てにはまだ早い。牛乳配達も着物の押し売りも母が血走った目で何度も追い返したせいで、ほとんどこの家には近寄らない。親族はおらず、極端に知人の少なかった母の弔問客はすでに全員が形式に則ったお悔やみの言葉を述べに来ている。
 それじゃあ、誰が。
 居留守を使おうかとも思ったが、生来の生真面目さがそれを許さない。よろよろと身体を起こす。横になっていたせいで麻のワンピースはしわくちゃになっていたが、今更取り繕う気力もなかった。どうせ、招かれざる客なのだ。適当にあしらって帰って貰えばいい。
 はぁい、と喉の奥から引き出された声はかすれて自分のものじゃないみたいだった。どちらかと言えば、それは母の声に似ている気がして、不意打ちのように鳥肌が立つ。
 余計に重たくなった足取りで廊下を歩く。足裏に板間の床は冷たい。過剰な湿度は不快にまとわりつき、ぺたぺたと蛙のような足音をたてた。
 玄関の引き戸にはめ込まれたすりガラスに影が映っている。見える限りでは一人分。思っていたより上背がない。女性だろうか。
 ほんの少し警戒心を緩め、流雨子は戸を開いた。途端、たっぷりと水分を含んだ空気が押し寄せてくる。水と土の匂い。それから、清涼感のある石鹸の香り。これはきっと、「彼女」の。
「狭山流雨子、さん?」
 短く、ごく短く切り揃えられた髪。前髪は眉毛のはるか上で、襟足は刈り上げられている。短く太い眉、黒目がちな大きな瞳。鼻や唇は小さく、決して万人が認めるような花のある美人ではないが、闊達な犬のような愛嬌があった。彼女が着ている夏服のセーラー服がなければ、流雨子は彼女の性別を勘違いしたままだったかもしれない。けれど、白い襟とプリーツスカートはしっとりと濡れ、その手には大きな男性用の黒い傘がある。まるで、ここでは雨が降っていると知っていたみたいに。敷地の外ではうるさいほどに蝉が鳴き、入道雲がそびえ立つ青い空が広がっているというのに。
「あなたに用があって来た……来ましたッス」
 だからだろう。見知らぬ少女と、不審者とわかっていてもなお、彼女を家の中に招き入れてしまったのは。
 少女は尾上シキ(おがみ しき)と名乗った。
 足の踏み場もないほどに散らかった居間へも台所へも案内するのが憚られ、比較的まともな仏間へと通す。煎餅座布団にきちんと正座して座った少女は流雨子が差し出したお盆にのった麦茶に軽く一礼しただけで、口を付けることはしなかった。ただ、仏壇へと視線を遣ったままじっとして動かない。正確には真新しい骨壷へ、か。
「亡くなったのは……」
「母です」
「御母堂の死因は原因不明……そう、言われませんでしたか?」
 少女の口から「御母堂」などという単語が飛び出たこと以上にどうして彼女がその事実を知っているのか驚いた。驚愕は流雨子の顔に如実に現れ、少女はそれを肯定と受け取ったのだろう。おもむろにスカートのポケットから一枚の紙片を取り出した。
 習字のときに使うような和紙を飾り気のない指が開いていくと、それは血判状だった。
 とは言っても血の刻印がなされているのは細かな文字で連なる文章の最後に記された署名のみ。そこにあったのは何よりも見慣れた、流雨子の、母の名だ。
「自分たち尾上は代々呪詛を扱う家系ッス」
「じゅ、そ」
「御母堂は尾上に呪殺の依頼をしてきたッス。対象者は二名。一人は『狭山流雨子』。もう一人、この名前に見覚えは?」
「……父、です。母とは離婚して……」
「この人はもう死んでるッス。そして、本来ならばあなたも」
 少女の言葉は容赦がなかった。端的に、淡々と放たれ、流雨子の心を容赦なく刺した。まるでその冷ややかさに感化されたかのように、流雨子の中心もまた急速に冷えていく。
 呪いなんて本当に存在するのか?
 疑念は尽きないが、少なくとも母が呪いを信じ、呪いによって流雨子と別れた父を殺そうとしたことはその筆跡からも疑いがないようだった。
 母が私を殺そうとしていた?
 どうして?
 私は、お母さんの娘で唯一の家族じゃなかった?
 どうして?
 殺したいほど憎んでた?
 それともこれも「病気」だから?
 お母さんが「普通」じゃないから?
 なんで、なんで、なんで!
「まあ、家族を殺そうとする人間はよくいます。それに死人に口なしッスから」
「なん、で」
「あんたに呪詛をかけたのは自分ッス。でも『跳ね返された』。それで呪いは依頼者に向かった」
「……え?」
「自分で言うのもなんなんスが、自分の呪詛を跳ね返すなんて相当ス。だから、こうして直接見に来たんスが……」
 ここまで言って少女は流雨子をじっと見つめた。尾上、と名を聞いているからか、その目はより一層獣のように見える。黒く、黒く、先の見えない闇夜のような。呪い、呪い、呪い、彼女が、それを、私に。
「っ!」
「あ!怖がらないで!自分はもうあんたを殺そうとしたりしないッス!」
 恐怖、否、拒絶。
 瞬間、家中を包んでいた雨音が一段階強くなったような気がした。流雨子の恐れと共鳴するがごとき雨。それを確認して、少女は素早く流雨子の手を取った。しっとりと柔らかな少女の掌が流雨子の骨張ってかさついた手を挟む。途端、どういうわけか心が落ち着いた。彼女を恐れ、遠ざけたい気持ちがすっとおさまった。それに比例するように雨音は徐々に小さくなり、やがて久方ぶりの無音の時間が訪れる。
「やっぱり。雨が弾く。あんたが恐れるもの、あんたに害なすもの、意識的でも無意識でも『拒否』する」
「え、私、何も」
「この国にも雨に関する妖怪はいるけど……外国産かもしれないッスね。あんたが拒否し続ける限り、絶対に破れない障壁。これは」
 少女の目が輝く。夢か幻かその背にある黒い尻尾がぶんと大きく振られた気がした。
「決めた。あんた、自分とコンビ組まないッスか?」
「こ、こんび?」
「相棒ってやつッス。あんたは尾上の傘下に入る。自分と組む。仕事をこなす。尾上にいれば衣食住は最低限保障されるし、うまくやれば報酬も出るッス」
「し、仕事ってそんな、私には何も……!」
「できる。自分があんたの能力使いこなしてみせるッス。だから、流雨子」
 このとき。
 このときの衝撃をなんと言い表したらいいだろう。
 生涯、狭山流雨子はその瞬間のことを忘れることはないだろう。黒目がちな少女の瞳が輝かしい生命の力を秘めてこちらを見ていた。唇はきゅっと引き締められ、掌は汗ばむほどに熱かった。熱意、情熱。そう記すのに相応しい感情を、流雨子はこれまでの人生において向けられたことがなかった。初めて、だった。だから。
「一緒に来て」
 彼女のその言葉につい、はい、と頷いてしまったのだ。

 こうして一人の雨降り女と一匹の少女は出会った。

 今はまだお互いの名程度しか知らない、脆弱な関係性と柔い心を抱えた二人が、やがて長きに渡る尾上の歴史を変えることになるのは、また、別の物語である。


2019.06.30

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