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その他 糖蜜コウモリと珈琲の魔女

「オヤ、なんだってこんな薄汚い」
 それはただのぼろ布のように見えた。ところどころはげた毛並みは、汚泥にまみれ、ごみを巻き込み、真っ黒に汚れた上によくない臭いもしていた。しかし、女は事もなげにそれをつまみあげると、しげしげと覗き込んで言う。
「カラントの瞳か。上等サね」
 上等、上等、と彼女は繰り返し、薄汚いそれを大事そうに胸元に抱え込んだ。
 女からは終ぞ嗅いだことのない、かぐわしい匂いがして、「それ」はわけもわからぬまま全身の力が抜けていくのを感じた。

 それが、糖蜜コウモリが持つ彼女にまつわる最初の記憶。

 糖蜜コウモリは正確には廃糖蜜コウモリという。
 その名の通り、彼らはありとあらゆる糖類を生成する過程で生じた廃棄物から生まれる。薄っぺらな被膜と鼠のような矮躯につぶれた鼻。お世辞にも愛らしいとも美しいとも言えない外見とその生まれから、糖蜜コウモリは日陰の生活を余儀なくされていた。
 キィキィと耳障りな鳴き声を聞くと髪の毛が軋むと嫌がって砂糖菓子の妖精たちは逃げ回った。空を飛ぶ様子を見かけると、とっておきのティースプーンがなくなってしまうと蜂蜜谷のエルフたちは眉をひそめた。
 もちろん、それらはすべて謂われのない作り話だ。糖蜜コウモリは誰かを困らせる悪戯なんてしない。ましてや不幸を運んだり、誰かを傷付けたりなど決してしない。
 糖蜜コウモリは他の生き物たちが嫌がって近寄らない、薄暗く湿っぽい洞窟の中で群れて暮らす。寄り集まって身を寄せ合い、なるべく人の目にも獣の目にも妖精の目にも留まらぬよう細心の注意を払う。太陽の光があまねく大地を照らす昼間に眠り、真っ黒な闇が覆う夜に飛び立ち、取るに足らない蜜羽虫や熟しすぎて誰も触れない果実などを食べる。そうして、機会があればつがい、子を残し、子を育て、やがて死ぬ。糖蜜コウモリの最期はそれこそ廃棄物のようだ。死に際の身体は悪臭を放ち、ぐずぐずに溶けた肉は同族さえ忌避するおぞましさ。当然、そんな死体には誰も見向きもしない。最後の最後に残った骨さえ踏み砕かれ、風に飛ばされ、ようやく大地に還る。
 それが糖蜜コウモリのごく平凡な一生。
 だから、「彼」の境遇はそんな「平凡」からしたら、きっとずっとマシ、なのだろう。
 それこそ、最初は最悪だった。
 彼は両親からも見捨てられたコウモリだった。
 それはきっと身体の小ささだとか、満足に餌も食べられない貧弱な牙だとか、それに何より仲間の誰とも違う真っ赤な瞳だとか、そういった些細なことが原因だったと思う。しかし、それは幼い彼にとっては死を意味した。実際、群れから爪弾きにされ、放置された彼はものの数日で生死の境をさまよっていた。長時間飛ぶこともできない。よって餌のある場所に辿り着くこともできない。空腹から衰弱し、泥水の中に墜落し、本能的にもがいても逃れること能わず、ただ体温は奪われる。
 誰も助けてはくれなかった。当然だ。だって、「僕」は「糖蜜コウモリ」だから。
 なぜかそれだけは誰に教えられることもなく理解していた。糖蜜コウモリは森の嫌われ者。誰からも愛されない日陰者。
 だから、すぐそばに迫った死という終わりさえ、どこか心穏やかに受け入れていたのかもしれない。真っ暗闇で一生を過ごすことが決められているのなら、どこで終わろうとも同じことだ。瞳を閉じて、呼吸を薄くして、そうして、諦める。
 一体どれほどの時間が経ったのだろう。もう、心なしか寒くもないような気がする、とまで思えた頃、声が聞こえた。
 人の声、明らかに自分へと向けられている、言葉。それだけでも驚きなのに、あろうことか、その声のぬしはコウモリを泥水の中からすぐいあげると、己の胸に抱いた。まるで、柔らかくて愛おしいものでも抱きしめるように。
 そして、彼女は言ったのだ。
 歌うように、なめらかに、優しくコウモリの身体を撫でさすり、穏やかな音階で、私の子におなり、と。
「……坊や……坊や、いるかい?」
 彼女の声が呼んでいる。
 白昼夢から急速に覚醒したコウモリは逆さまにぶらさがっていたホールの天井からすぐさま飛び立つ。階段下の廊下を抜け、向かうのはキッチンだ。
 鼻をひくつかせるまでもなく、様々な匂いが進行方向からは流れてきていた。ミルク、蜂蜜、砂糖、ナッツ、小麦粉、バター、ふくらし粉、卵。金属の器具どうしが触れ合って生まれる特有の匂い、焼き上がりのクッキーの香ばしさ、食糧庫から取り出されたラム酒付けのレーズンの馥郁たる香り、切った林檎の瑞々しさ。それらすべてをまとうようにして立つのは一人の女だ。
「母上、」
 コウモリの呼びかけにぱっと顔をあげた彼女は花がほころぶように微笑んでみせる。腰まで伸ばした真っ黒な髪に褐色の肌、はめ込まれた瞳の色は宵闇の空の色にも春に咲く菫の色にも例えられる。
 夕暮れの森の奥深く、ひっそりと館を構える彼女はその肌の色とまとう香りから「珈琲の魔女」と呼ばれていた。あの日、コウモリをすくいあげ、優しく抱き、自らの子とした、他ならぬ彼女である。
「起こして悪いねェ」
「いいえ。何か御用ですか?」
「バニラビーンズが切れちまってサ。坊や、悪いけどカスタードのところへ、ひとっ飛び行ってきてくれないかい?やっぱりあの魔女のバニラじゃないとこう菓子の味もバシっと決まらないというかねェ」
 そう言いながらも早速おつかいの準備をしている魔女に対し、コウモリには最初から拒否権はない。また、元よりコウモリには断るつもりもない。彼女に救われたあの日からコウモリは魔女に全幅の信頼と愛情を傾けている。元より非力で貧弱なコウモリの身ゆえに、強大な魔女の力を持つ彼女の役に立てることはほとんどない。しかし、こんな用事ならお安い御用だ。
「もちろん。カスタードの魔女様のところなら何度か行ったこともありますから」
「助かるねェ。さすがアタシの坊やだ」
 大樹を削り出して作った作業台の上にはすでに今日の魔女の成果がところ狭しと並んでいた。林檎のマフィン、チェッカークッキー、ドレンチェリーののったドロップクッキー、カラフルなギモーブにドライフルーツをたっぷり混ぜ込んだパウンドケーキ、型抜きのクッキーはお化けにジャックオーランタンに魔女のシルエット。
 そこまで見てようやく気付く。そうか、今宵はハロウィンだ。日が暮れる頃にはランタンを提げ、仮装した子供たちが家々の戸を叩くのだろう。トリックオアトリート、お菓子くれなきゃいたずらするぞ。
 当然森の奥にあるこの館に子供たちはやって来ない。魔女はわざわざハロウィンの喧騒に乗じ「魔女の仮装」をして、街角で子供たちにお菓子を配る。存外、子供好きなのである。
「これでよし、と。頼んだよ」
 魔女のコインと呼ばれる虹色に光る石が入った小袋を首にかけてもらい、コウモリは意気揚々と館を後にした。こんなとき翼のある生き物でよかったと思う。
 夕暮れの森は文字通り常に夕暮れのような薄闇が辺りを覆い尽くしている。
 甘くて苦い糸杉は規則正しく並んで、物静かに幾重にも重なる影を作る。生き物の気配はなく、人の気配は当然ない。こんな寂しいところに彼女は独りぼっちで住んでいる。
 いつだったか、どうしてなのかと尋ねたコウモリに魔女は困ったように微笑んだ。
 糖蜜コウモリでさえ、群れで暮らす。ましてや彼女は素敵な人だった。陽気で、歌がうまくて、ダンスが好きで、お菓子作りが何より得意で、魔法だって使えた。それなのに、どうして。
 コウモリの疑問に魔女は簡潔に答えた。アタシのこの肌の色は普通じゃないから、と。
 そのとき、初めてコウモリは人間が人間を肌の色で差別することを知った。エルフや妖精や美しい森の生き物たちが糖蜜コウモリを惨めなものでも見るように見下すのと同じように。糖蜜コウモリが同じ糖蜜コウモリを瞳の色が違うという、ただそれだけで群れから見捨てるのと同じように。
 おんなじだ。おんなじだ。でも、いったいこんな理不尽があるだろうか。
 ぽろぽろと涙をこぼすコウモリを魔女はたくさん慰めてくれた。泣かなくていいんだよ、と言う声は優しくて、撫でてくれる掌は温かくて、余計に涙がこぼれた。そのときから、コウモリの決意はより強固なものになった。絶対に彼女を裏切らない。そばにいる。そうして、何かあれば彼女の役に立ってみせる、と。
 しかしながら、最後の決意だけは未だ満足に成し遂げたことはない。
 今日だって、簡単なおつかいだったはずだ。森のはずれにある小さな小屋で暮らす優しく穏やかなカスタードの魔女のところへ赴き、バニラビーンズを受け取ってくるだけ。それなのに、それだけのことさえ充分に成し得ない自分に腹が立つ。
 静かな森に相応しくない、異音を確認しようと速度を緩めたのが悪かったのだ。
 空中を飛んできた網は真っ直ぐにコウモリに覆い被さり、見事に翼持つ生き物を地面に叩き落とした。しばらく上下がわからなくなって、混乱する。幸い下草が多い茂った草地に落ちたせいでどこにも怪我はなさそうだった。ただ、くらくらと揺れる頭を必死に起こして事態を把握しようとする。一体、何が起こったのか。
「なんだコウモリじゃねえか」
「くそ、はずれだな。道理でとろくせえと思った」
 近付いてくる二人分の足音。すぐに人間だとわかった。それもおそらくこうして生き物を捕らえることを生業としている人々、調達士。
 しかし、糖蜜コウモリは彼らの標的になることはほとんどない。それは当然で、糖蜜コウモリを捕まえたところで、製菓の材料になどなりはしないからだ。精々、廃棄品と見まごうばかりの質の悪い砂糖が取れるくらいだろう。
「逃がせ逃がせ。次狙うぞ」
「ああ……あ?こいつ、首からなんか提げてるぞ?」
 すぐに解放される雰囲気に安心しきっていたコウモリはその言葉に露骨に身体を強張らせる。
 これはダメだ。
 魔女がコウモリを信頼して預けてくれた大事なもの。それが人間にとっても非常に魅力的な品物であると、コウモリも知っている。
 急にバタバタと暴れ始めたコウモリに男たちは余計に躍起になる。網からコウモリを引きずり出した男の指に思い切り噛みつく。男は野太い悲鳴をあげたが、コウモリを手放すことはしなかった。それどころかコウモリの首から手早く小袋を外すと、コウモリ自体は腹いせとでも言わんばかりに地面へと思い切り叩きつけた。
 先程とは比べものにならないくらいの衝撃が全身を襲う。頭がクラクラと揺れて、視界が霞む。返して、という声にならない声が喉の奥で燻る。痛みとショックでぴくりとも動かない身体に反し、唯一まともに機能する耳に飛び込んでくるのは無情にも興奮した男たちの会話だ。
「魔女のコインじゃねえか!」
「すげえ金貨何枚分だよ」
「なんでこんなものコウモリが持ってるんだ?」
 返して。その一言が声にならない。睨めつけるつもりが、最早男たちの顔すら認識できない。しげしげと眺められているような気もするし、すでに興味を失われているような気もする。けれど、男たちの手の中にまだ魔女のコインがあることだけはわかった。だから、まだ気を失うわけにも諦めるわけにもいかなかった。それは、それだけは、どうしても。
「何をしている」
 地を這うような声がどこからともなく聞こえたのはそのときだった。
 気が付けば夕闇は深くなり、夜が迫っている。風が吹き、懐かしい匂いが鼻先をくすぐる。ああ、ああ、間違いない。夜から漏れ出てきたような、白い靄のような、何かが意志をもって形を作る。珈琲の香りを連れて、ぐるり、渦を巻いて、牙が現れ、瞳が現れ、角が現れ、爪が現れる。それらすべてが脆弱な人間を一息で粉砕できるような暴力性をもって。魔女が扱う、顕現魔法。今宵は憤怒の形持つ雄々しきドラゴン。
「私の息子に何をした!!」
 魔女の咆哮と竜の咆哮が重なった。男たちは悲鳴の一つもあげられず、折角奪ったコインすら投げ出してあっという間に走り去った。
 あとには煙のように白く崩れ落ちるドラゴンと血相を変えて駆け寄ってくる一人の女。コウモリが家を出たときと同じ漆黒のなんの装飾もないワンピースにエプロン。外してくる余裕もなかったのだろう。紫色の瞳をこぼれんばかりに見開いて、慌てふためいた様子の女はとてもではないが、先程吠えた魔女と同一人物には思えない。
「ああ、ああ、なんて酷いことを…!坊や、怪我は…ああ、こんなに傷だらけになって…!」
「は、母上、コインが……」
「そんなものはどうだっていいんだよ!まったくこの子はそんな心配ばかりして」
 魔女のまなじりに薄らと浮かぶ涙を見て、また悲しませてしまったという失望と、この人の感情をここまで揺り動かすことができるのは自分だけだという優越感がぐらぐらと揺れる。
 けれど、そんな不安定な気持ちも彼女の胸に抱かれた瞬間にどうでもよくなってしまう。香ばしい珈琲の香り、優しいだけの体温、柔らかくて温かくて、不安も何もかもあっという間に吹き飛んでしまう。母上、と甘えた声で鳴けば、彼女はふふっと喉の奥で笑ったようだった。
「サア、帰りましょ、坊や。傷の手当てをしないとね」
 とろけるような慈愛の言葉にもう何も考えられなくなる。コウモリはゆっくり瞬きすると、ただそのぬくもりに身を預けた。
 遠くから秋の祝祭を喜ぶ歓声があがる。
 今宵はハロウィン。子供たちの甲高い声と飛び回るゴーストたちの高笑い。空には満月。月下を箒で飛ぶ一人の魔女と一匹のコウモリ。街行く雑踏にまぎれ、喧噪に加わり、先祖の魂を慰め、収穫を祝う。はみ出しもののふたりぼっちも、今宵ばかりはどこかの誰かとおんなじで、ゆえに顔を見合わせて笑うのだ。甘いお菓子の香りに包まれて、真夜中までたっぷりと。


2018/10/31

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