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現代帝都 六畳一間の紅一点

 同居人がビニール袋に入った一匹の金魚を連れ帰って来たのは、吹きすさぶ寒風の中にも春の兆しが見え隠れする如月も下旬のことだった。
 特段変わったところのない普通の金魚だった。種類としては和金というのだろうか。よく縁日の屋台で桶の中に無数に入れられ、出目金や琉金の引き立て役でもあるかのように、あまりにも在り来たりな朱色を晒している例のあれだ。
 田んぼの鮒に人間好みの色を塗りたくったような魚。魚住つづらの金魚に対する所感といえばその程度でしかない。
 しかし、それを聞いた同居人は露骨に顔をしかめた。あのね、つづら、と説教を始めるときの常套句を放ったかと思えば、案の定お得意の古臭い持論を展開する。
「そういう言い草はどうかと思うよ。金魚だって好きで金魚なわけじゃないんだし…そりゃ生まれは鮒だろうけど…こうやって金魚鉢に入れてやればなかなかのもんだろう?」
 玉砂利を敷き詰め、陶器の「竜宮城」を設置し、若草色の水草を植え込んだ金魚鉢は小さな水中の箱庭のようだった。丸い水の中を尾びれを揺らして泳ぐ金魚は乙姫様だとでも彼女は言いたいらしい。
 つづらはあからさまなため息をつく。
「あなた、竜宮城を見たことがある?私、実際見に行ったけれど、こんな玩具と比べるのもおこがましいわよ。本物はそれはもうきらびやかで、華やかで、思わずエラ呼吸も止まるほどで…」
 どうやらこのつづらの発言は完全に同居人、西加仁子(さいかにこ)の機嫌を損ねたようだった。
 つづらだって彼女が妖怪として自我を得てからのほとんどを廃寺で人を食って過ごしていた化け蟹だったことを決して忘れたわけではない。彼女が海の怪異でありながら、海の底についてあまりにも無知なのを、揶揄しようとしたわけでももちろんない。
 ただ、売り言葉に買い言葉だったのだ。
 タイミングがよくなかった。機嫌がよくなかった。虫の居所が悪かった。ただ、それだけのことで共にエラ呼吸であるという共通点のみを縁に、同じアパートの一室で暮らす二人の間の空気はぎくしゃくとしてしまった。
 元々完璧にうまくいっていたとは言えないだけに、それも当然だろうと思いつつ、つづらは憂鬱を隠せない。かつて海中で気の向くままに歌い、泳ぎ、笑い、怒り、悲しみ、楽しんだ自由すべてを失い、最早地べたを這いずり回るしか能のない「陸人魚(おかにんぎょ)」である自分には、ここを出ても行く先はない。
 いや、本当のことを言ってしまえば、そこまで深刻な話ではない。つづらは人間にまぎれて人間の仕事をし、対価として人間の通貨を得ている。その気になればあくまで「普通」に生きていくことぐらいは容易いだろう。しかし、それでも。どうしても、陸人魚としてのつづらの望みはここ以外では叶えられない事情がある、というだけの話だ。
 陸人魚、それはかつての人魚の成れの果て。
 一度でも陸地にあがってしまったがゆえに、海に焦がれながら、海に嫌われ続けることになった哀れな妖怪。そんなつづらにとって、彼女の傍だけが「海」を感じられる唯一なのだ。ただ、それだけのことだった。
 つづらになんの断りもなく、台所の片隅の、質素な花瓶が置かれていた位置に金魚鉢が取って代わるようになってから三日が経った。
 つづらと仁子の間には相変わらず常とは異なる腫れぼったい、触れがたい雰囲気が漂っている。常と変わらぬ生活を送りながらも、どこかよそよそしい。あったことをなかったことにしたくて、でも見事に失敗している。要するに二人とも不器用なだけなのだが、両者ともに決してそれを認めないことによって事態を更に悪化させていた。
 つづらは努めて金魚鉢を目に入れないようにし、仁子は逃げるように金魚に目をかけた。朝起きたら「おはよう」と餌を投げ入れ、帰ってきたら「ただいま」とまた餌をやる。朝晩二回の甲斐甲斐しい給餌を受け、ただの和金は徐々に艶やかに立派な姿かたちになっていくようだった。あたかも平凡な娘が帝の寵愛を受けて花開くお伽話のように。
 それは、つづらにとってあまり愉快ではない事態だった。何が、と問われてもうまく答えられない。ただ、仁子が金魚に注ぐ眼差しが嫌だった。仁子が恭しく水面にばらまく魚臭い餌が気に食わなかった。とにかく、金魚にまつわる彼女の所作すべてが気に障ってしかたなかったのだけれど、最早そんなことを気軽に言えるような雰囲気でもなくなっていた。二人の会話はいつも最低限。今日帰る時間と明日の朝食のことだけだった。
 そんなことが何日か続いた日のことだ。
 その日、海がやってきた。
 夜も更けきった頃、つづらはふと目を覚ました。
 人間じみた体温で温まりきった布団の中でぼんやりと視線を巡らせる。平凡な六畳間には豆電球一つが灯り、矮小な室内を隅々まで照らしていた。隣からはつづらが床に入るときにはなかった寝息が規則正しく聞こえてくる。それで、とつづらは納得した。海は、決してつづらの元へはやって来ない。必ず「彼女」に惹かれて来るのだ。
 その証拠に潮の香りはどんどんと強くなる。鼻をつく、陸上においては異臭とも思える強い匂いはつづらにとってはどこまでも懐かしい。身体を横たえているのも煩わしくて身を捩る。その拍子に布団から飛び出た脚は立派な尾びれのついた人魚のそれに変化していた。脚だけではない。吸い込んだ空気を肺ではない臓器が処理しようと蠢く。鼻と口に変わって顎の下で何かが開いたと思ったら、こぽりと喉の奥が音を鳴らした。
 ああ。声に出さずに「人魚」はつぶやく。海だわ。感極まったように彼女の囁きは六畳間を埋め尽くした海に溶ける。
 最早そこに重力は存在していなかった。人魚は軽やかに布団から抜け出すと、尾びれで水の塊を蹴る。細かな泡を生み出しながら、優雅に六畳間で二回転した。部屋にあったささやかな調度品もすでに波間に漂う異物と成り果てている。箱ティッシュ、眼鏡拭き、ハンドクリームのチューブ、アイマスク、目覚まし時計、枕、布団。
 そんななか、一匹の蟹だけが畳と同化するように水底に沈んでいた。一畳分はあろうかという暗緑色のすべやかな甲羅に突起物が並んだ太い脚やハサミ。甲殻類特有の硬質で刺々しい輪郭は敵を威嚇し、味方を鼓舞する勇ましい武者のようにも見えなくもない。だが、それはじっとして動く気配がなかった。武者どころか生きているか死んでいるかさえも判然とせず、無言のまま六畳間に起きた緩やかな水流に触覚をそよがせている。
 つづらは身を翻して蟹へと近寄った。その背を撫で、目玉に触れ、わずかに掲げられたハサミの先端にキスをした。
 「彼女」は目覚めない。
 いつもそうだ。海は彼女に引き寄せられて、この遠く内陸にあるアパートメントまで、はるばるやって来ているというのに、彼女自身がそれに気が付くことは絶対にない。つづらは一方でそれを残念に思い、一方でそれに安堵する。彼女に恋い焦がれる海を知っているのはつづらだけ。それならば如何様にだってやり方はある。だって、そう。魚住つづらはこのときばかりは「人魚」なのだから。
 ふと視界の隅を朱色の影がよぎった。いつの間にか襖が少しだけ開いて居間や台所の物が六畳間へと流れ込んできている。それがなんなのかつづらにはすぐにわかった。海水の中で淡水魚はうまく呼吸ができないのだろう。ぱくぱくと苦しそうに口を開け閉めし、横倒しになって漂うだけの無様な魚類に海洋生物の頂点に立つと言っても過言ではない人魚はあからさまな侮蔑を向ける。
「馬鹿な子」
 ここは海なのだから、あなたの居場所なんてあるわけないじゃない。
 ゆるりと泳いで金魚に狙いを定めた。水中で瀕死の獲物を捕らえるなんて、つづらにとっては造作もないことだった。むしろ自ら飛び込んでくるかのように金魚はつづらの口内におさまった。
 ずらりと並んだ歯列は特になんの感慨もなく触れたものを噛み砕く。
 小さな鱗と小さな骨格が口の中でぱりぱりと音をたてた。それが飲み下せるようになるまで数秒もかからず、食道を通過したのは欠片のようなものだけで、何かが胃の腑におさまったような気もしない。海がやって来たその日、一匹の金魚がこの部屋から消えた。ただ、それだけのことだった。

「つづら、金魚知らない?」
「知らない」
「ええ?どこ行っちゃった…というか、どこか行っちゃうもの?」
 翌朝、何事もなかったように人の姿を取り戻した同居人は珍しく慌てたように家の中を走り回っていた。つづらは冷蔵庫の中身を物色しながら欠伸をつき、やがて思いついたように口を開く。
「ねえ、仁子」
「ん?」
「ごめんね」
 一瞬の空白のあと、あたしこそごめん、と彼女は言った。
 台所の金魚鉢に水が張られることはもう二度となかった。


初出:人外アンソロジー企画「STRANGER」
2018.10.08

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