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現代帝都 日比谷発海底行き

 燃え盛る太陽が西の空へと落ちていく。
 帝都の中心部、警視庁舎のある日比谷はその区域のほとんどを木々の生い茂る公園と公的な施設によって構成されている。よって、真っ赤な火玉は水平線に沈むでも地平線に果てるでもなく、建物の隙間へ吸い込まれる他ない。どろどろに溶けた溶岩の塊にも似た球体が緩やかに、けれど最後の熱波を伴って夕暮れの向こうに埋没する。
 空に光なく、しかれど夜でもない。すれ違う人の顔もわからぬから「誰そ彼時」。ガス灯が一定間隔で立ち並ぶ帝都には最早真の闇など訪れなくなって久しいが、それでもこの瞬間だけは心許ない気持ちになる。
 少なくとも、園山葉月は逢魔が時とも呼ばれるこの時間帯が好きではない。
 庁舎から一歩外に出ればむわっとした空気が全身を覆った。空調のきいた室内との落差が激しい。石畳はまだ白昼の熱を持ち、パンプスを裏から容赦なく焼いた。
 キャラメル色の地味な靴の踵は低い。小柄な少女を、より小柄にみせるアイテムを何より葉月自身が気に入っていない。
 本当は西加班長のように艶やかな黒色に八センチもヒールが付いた靴で颯爽と歩いてみたいと思う。けれど、何かが葉月を思いとどまらせる。まだ早いんじゃない、と誰かが囁く。その声を、あえて聞かないように、耳を塞ぐ。いつも。
 車が行き交う片側二車線の大通りを渡る。そのちょうど中央にはコンクリートが少し出っ張っただけのプラットフォームが道路に浮かぶ小島のようにある。見上げれば架線は道路に沿って前方にも後方にも延び、その出発点も到着点も排気ガスの向こうに霞んで消えていた。
 電車を待つ幾人かの人たちに紛れて葉月も小島の隅に立つ。信号は二度変わり、やがてクリーム色とグリーンの二色に塗り分けられた車両がこちらへと向かって来た。集電装置と架線が触れ合い、青白い火花が飛び散る。一両編成の車両はその分大きく、並んだ窓からは黄色い光が漏れていた。
 甲高いブレーキ音をたてて、日比谷電停に停車した都電日比谷線は空いていた。
 前ドアから降車する人は二人。一方、後ろドアからは葉月を含め四人が乗り込んだ。木の床は乗客の重みを受けて、苦しそうにきいきいと鳴く。ベルベット張りの座席は車窓の下に一列ずつ並び、新たに乗り込んだ人々は先客との間に一定の間隔を空けて思い思いに腰を下ろした。
 葉月もそれに倣う。
 客の乗降を済ませ、電車は速やかに発車した。レールの上を走る振動、鼓膜の奥を細かく震わせる駆動音。賑やかにお喋りする乗客は一人もおらず、ゆえに無機質な騒音が車内には満ちていた。
 移動する箱が持つ独特の空気はなぜか眠りを誘う。新しい職場で勤めをこなすようになって一ヶ月。知らず疲労も蓄積していたのだろう。ガタンガタン、と一定のリズムで刻まれる振動に揺られながら、葉月は速やかにどっぷりとした闇の中に落ちていった。
 一体どれほどの時間、意識を飛ばしていたのだろう。
 葉月が覚醒したとき、窓の外はすっかり暗闇が支配していた。
 一瞬、寝過ごしたのかと考えて、さっと血の気が引く。葉月の住むアパートメントの最寄り電停まで、実際それほどの時間はかからない。しかし、窓の向こうには一筋の光すら見えず、街を過ぎ、街灯もないほどの山奥までやってきてしまったとしか思えない。
 ここは一体どこだろう。
 残念ながら葉月は毎日のように利用する電車の終着地を知らない。どこから来て、どこへ行くのか。なんの疑問も持たないまま、無心でやって来た箱に乗り込むだけの毎日。そうするしかない、という諦観は物心付いたときからずっと、葉月の心にまとわりついて離れることはない。
 車内の人々もいつの間にか数が減っていた。ぽつぽつと座る乗客は一様に俯いてその表情を伺うことすらできない。当然ながら見覚えのある背格好は見当たらない。皆、温かい家に帰るのだろうか、家族は待っているだろうか、それとも暗く冷たい家に帰るのだろうか、独りぼっちなのだろうか。
 葉月みたいに。
 車内の電灯が点滅した。青白い蛍光灯は不安定にしばし踊り、やがて安定を取り戻す。それを見計らったかのように車両前方の運転席の扉が開いた。
 否、正確に言えば、その瞬間を葉月は見ることはできなかった。なぜなら、車両の前方は明かりが消え、まるでそこから先を失っているかのように純度の高い闇に包まれていたからだ。無論、そんなことはあり得ない。いくら中距離を走り、乗客の多い路線だからといって、明かりを失って先を見通せないほど長い車両などこの路線には存在しない。少なくとも葉月は見たことがないし、今日乗り込んだのはいつも通り、いつもの車両だったはずだ。だったら。
 カチカチカチ、と神経質な金属音が響く。同時にずるずると湿った何かを引きずるような音、生臭い匂いがつんと鼻の奥を突く。ぞわりと全身にむらなく立った鳥肌が葉月を襲った。直感的に見たくない、とそう思った。向こうからやって来るものは「いやなもの」だ。見ないで済むなら、見ない方がいい。そう思うのに、葉月の首は固定されたまま動かなかった。掌の汗がスカートをじっとりと濡らす。
 やって来るもの。それは海底の汚泥にぎらぎらと光る眼を備え、二本の腕と二本の脚を持ち、無理矢理人間の姿を模したかのような、怪物、とした言い表せないような姿をしていた。
 車掌の衣装を不格好に着込み、カチカチと改札鋏を鳴らすそれは不自然な動きでゆっくりと歩く。当然、この路線で車内改札があったことはこれまで一度もない。そもそも、あれは車掌なのだろうか。というか、人間なのか?
 葉月が混乱して指先一つ動かせないままでいると、「それ」は葉月の斜め前にいる客に対して切符を求めるように掌を広げた。俯いた客は反応を示さない。じっと押し黙り、まるで車掌がいることにすら気が付いていない様子だ。一体どうするのだろう、と見守っていると、膨らんだ軍手の先に爪がついたような巨大な手を一瞬ひっこめたそれは、おもむろに客の手を掴むと、その爪の先を改札鋏でばちんと打ち抜いた。
 一瞬の出来事だった。飛び散る鮮血、転がり落ちる爪の先、千切れた肉の欠片が張り付いた金属製の道具。
 しかし、爪ごと指の先を切り取られたにもかかわらず客は無反応で、車掌も何事もなかったかのように踵を返すだけだった。
 次は、葉月の番だ。
 赤い瞳と視線があった瞬間、葉月は弾かれたように手にしたカバンの中身をまさぐった。化粧ポーチ、財布、ハンカチ、ボールペンが刺さった小さなメモ帳。こういう時に限って手に触れるどうでもいいものたちを押しのけて、どうにか探り当てた職工定期券をばっと差し出す。そこには葉月の名前と勤め先である警視庁の押印があるはずだ。
 ちらっと薄目をあけて見遣れば黒々とした泥の塊のような車掌はまじまじと定期券を覗き込んでいるところだった。間近に寄れば余計にすさまじい匂いが嗅覚を突き刺す。よく見ればどろどろと流動するその表面には死んだ魚や海藻が紛れ込み、腐敗し、それが途轍もない悪臭の原因にもなっているようだった。
 やがて「それ」は葉月の前から立ち去った。納得したのか、興味を失ったのか、それはわからない。ただ、前方と同様、光を失った車両の後方に吸い込まれるように怪物は去った。葉月は、爪ごと指を切り取られることはなかった。
 安堵のため息が全身を弛緩させた。一体なんだったのだろう。いや、現在進行形で一体これはなんなのか。いつもの通勤電車でないことは確かだが、それなら葉月はどこに迷い込んでしまったのだろう。ここはどこで、どこへ行くのか。そうだ、電車はまだ動いている。動いている以上は進んでいる。進んでいるということは目的地があるはずだ。行くべき場所に向けて進む電車。その車窓の向こうには一体何があるというのだろう。
 現実を直視するのが恐ろしい。しかし、確認しないわけにはいかない。覚悟を決めて、顔をあげる。けれど、窓の外を確認するより前に、そこには葉月が予想もしなかった光景があった。
 目の前の座席に母が座っていた。
 忘れるはずもない。忘れようもない。葉月と同じ髪の色、よく似た顔立ち。少女から女へと変化する過程の葉月と外見上の若さをいつまでも保ち続ける母はそれこそ双子の姉妹のように瓜二つだった。母は、薄水色に昼顔がプリントされたワンピースを着ていた。高いヒールの靴を履き、つばの広いリボンの付いた麦わら帽子を膝の上にのせて、にっこりと微笑んでいる。見た人の警戒心を一瞬で溶かす笑みだ。それを、母は武器として扱っていた。盾として持ち得ていた。餌として、活用することができた。そういう、ヒト、だった。
「……お、かあさん…」
 葉月の声に、母はますます笑みを深める。ひゅっと葉月の喉が鳴った。他の誰も母の笑みの違いに気が付かなかったが、葉月だけは母の笑顔を正確に見分けることができた。これは、舌なめずりの、笑み。
「葉月、ずるい子、はしたない子」
「ち、ちが……」
「わかっているのでしょう。そんな顔して、そんな目をして、媚を売って、恥ずかしい、恥知らず、私とおんなじ顔をして、おんなじ顔をしているから、そんなことを言うのね」
「ちがう、の、お母さん、私、」
「違わないわ」
 会話は成立しているようで、していない。
 その不自然に、すでに葉月は気が付かない。
 膝は震え、歯の根は合わない。怖い、怖い、怖い。お母さんの声で、顔で、そんなことを言う、そんなことを言わないで。私と同じ顔で、私の大嫌いな顔で、お父さん、助けて、助けてくれない、どうして、誰も、誰も、誰も、誰も、私のことなんて、嫌い、嫌い、嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いお母さんのことなんて。
「葉月、お母さんのこと好きでしょう?」
 嫌い。
「だったら言うことを聞きなさい」
 嫌い。
「お母さん、葉月のこと好きよ」
 嘘つき。
「やめて!」
 思いの外、大きな声が出た。でも、葉月は知っている。一言でも反論すれば、一つでも反抗すれば、今度は、母は、今度こそ、獲物に手をかけるということを。
 ふっと影が差した。立ち上がった母の振りかぶる白い掌が見える。ああ、また。痛い。痛いのは、いや。きらい。それなのに、お母さんはどうして、私をぶつの?嫌いなの?好きなの?嫌いなら、それはやっぱり。
「しかたないわ」
 瞬間、猫の声がどこからか聞こえた。
 衝撃はやって来ない。猫がいたのか。それより母は。
 葉月が顔を上げると、「母の姿をした何か」は引き攣った顔をして、後ずさりしていた。その瞳は恐怖におののき、明らかに何かにおびえている。葉月も彼女の視線の先へと目を遣る。闇の中から覗く丸い前足。虎柄の見慣れた模様。ぴんと立った三角形の耳、白いひげ、濡れた鼻。あ、という葉月の声に気が付いたのかそうでないのか。「彼」は曲がった尻尾をぴんと立てると、実に軽やかに、場違いに、にゃあんと鳴いてみせた。
 効果は覿面だった。母だった「それ」はすぐに形を失い、どろどろした何かに成り果て、闇へと溶けた。
 消滅は、驚くほど呆気なく、葉月がぽかんと口をあけている間にすべては終わっていた。窓の外には薄闇に染まった空が帰り、すべての生活音が正しく戻って来る。排気音、ブレーキの甲高い音、振動、車内アナウンスが次の電停への到着を告げ、車両は速やかに停車する。
 猫は、葉月の様子を窺うように、しばらくこちらをじっと覗いていたが、やがて料金などお構いなしで開いた後ろドアから外へと躍り出た。
 我に返った葉月が慌てて背後の窓を開けば、夜の街を猫がゆく、あまりにも自然な景色が見えた。けれど、見間違えるはずもない。その柄、その尻尾、その雷電にも似た黄金色の瞳。
「あの!ありがとう、ザンゲくん!!」
 尻尾一振り。それが彼なりの照れ隠しであると、葉月が知るのはしばらくあとになってからだった。


2018.09.30

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