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現代帝都 綺堂家の女

 一度でも目に付くとなんとなく気になってしまうものだ。
 交差点脇の歩行者用信号機に立てかけられた花、飛び散ったヘッドライトの破片。
 まだ燻った匂いを残す焼け焦げた家に張られた規制線。
 集合住宅の階段口に残っている赤茶色の染み。
 変な具合に音が途切れる踏切の警告音。
 行き交う雑踏の中にまぎれた片足のない人。顔の潰れた女。ぼんやりと虚空を見つめるだけの子供。赤ん坊の泣き声はすれど、母親の抱く産着の中身は空っぽだ。
 柴田恭一はなるべく「それら」に気が付いていないふりをする。目を合わせないよう、決して「彼ら」を認知できる人間だと、悟られないようにする。
 お互いに認識しあうことができたとて、いいことなど何一つない。
 恭一が彼らにしてやれることは何もなく、また、彼らは恭一に何を求めていいのかわからない。
 ただ、縋る。
 苦しくて、辛くて、憎くて、羨ましくて。死してなお、あるいは自らが死んでいることさえわからなくて。助けを求める。誰でもいい。けれど、大半の人は彼らの声にも姿にも気が付かない。
 だから、希少な人間として、恭一が選ばれる。ただ、そこにいたから。そんな理由で縁もゆかりもない死人に求められてはたまったものではないが、向こうも必死だ。よって、恭一も全力で拒絶する。下手に同情を示し、共感を返し、ろくな目にあったことはない。
 そういう意味では、人間とは一線を画す妖怪の方が恭一にとってはまだマシな存在だと言えるかもしれなかった。時折、身も竦むような強烈な敵意や憎悪を向けられることがあったとしても、だ。
 シャツの前をきゅっと締めて、恭一は足早に路地を去る。背筋をぞろりと氷のように冷たい何かが過ぎったのは気のせいではないと思う。何かがいる。ついてきている。そう断言できるほど、「それ」はその正体を隠そうとはしていなかった。振り返る勇気はないが、ひしひしと背中越しに伝わるプレッシャーは姿が見えないからこそ重い。
 勘弁してほしい。徒労感と諦観がどっと押し寄せる。
 恭一にとって何かに「憑いて」来られることは決して珍しい経験ではない。しかし、普通は徹底的に無視していれば、そのうち離れていくものだ。相手にも意志がある。いないものと扱われては、こちらの要望が叶わないと嫌でもわかる。それなのに、それでも、しつこく恭一にまとわりついてくるモノがあるとすれば、そもそも目的自体が異なると言えるだろう。つまり。
『気が付いてるくせに』
 生臭い声が背を撫でる。総毛だった両腕で鞄を抱え直すと、恭一は勢いよく走り出した。
 この手の輩が一番厄介なんだ!と脳内で毒づいても背後の気配は飽きることなく、一定の距離を保ってついてきている。
 そう、「それ」は即ち、恭一のように見える人間を、ただ生きている人間を、害することのみを目的とした、悪霊とか怨霊とか呼ばれる類のものだ。
 自宅の前を通過し、一方通行の細い通りを一本挟んだ向こう側。鬱蒼とした樹木に覆われるようにして建つ欧風の館がある。鈍色の尖塔は平凡な住宅街の中で悪目立ちし、何よりどこからともなく集まってくるカラスの群れがご近所さんの悪い噂を助長した。そのせいで、恭一は若くして人の噂話には大した根拠も真実も含まれていないことを悟ってしまった。あんなものは所詮、退屈な市井の人々の暇潰しに過ぎない。
 煉瓦を積んだ門柱に鉄製の物々しい外門。石畳の道が辛うじて奥へと続いていることはわかるものの、両脇から枝垂れかかる常緑の木々の緑が濃すぎて、先まで見通すことはできない。何度も剪定ぐらいしろって言ってるのに。両脇に花でも植えればだいぶ印象も変わる、と忠言したら鼻で笑われたことを思い出す。魔術師の館よ、お姫様が住んでるんじゃないわ、とはあんまりだと恭一は思うのだが。
 呼び鈴も鳴らさず、門戸を引き開ける。扉はその重厚さに反して軽い動きで簡単に恭一を招き入れた。好き放題に伸びた下草を蹴り上げて、走る。突然の闖入者に驚いたカラスがけたたましい鳴き声をあげて飛び去ったが、気にしてなどいられない。枯れた草に足をすべらせそうになりながら、懸命に館の玄関を目指す。
 そして、それは突如目の前に姿を現した。
 格子がはまった窓が一定の間隔をあけてずらりと並ぶ。門柱同様に煤けた色の煉瓦を積み上げた二階建ての洋館は瀟洒といえば瀟洒だが、受ける印象はどちらかといえば不気味に寄っている。雨どいからこちらを睨むガーゴイルの像、あちこちで羽を休める無数のカラス。おまけに今日は今にも雨が降り出しそうな灰色の雲が重く垂れこめていた。
 両翼を広げたような形の建物のちょうど中央。大理石を数段積んだその先に出入りのための玄関がある。歪んだ硝子の外灯に火は入っていない。そのせいか妙に薄暗い雨避けの下、銀幕の中でしか見たことがないような獅子の形をしたドアノッカーに手を掛けようとしたところで、先手を打つように扉が開いた。
「百合睦!」
「なぁに、騒々しい」
 扉の向こうから顔を覗かせたのは恭一の幼馴染だった。
 濡れたような黒髪、整った顔立ち、薄紅色の唇を開きかけ、すべて察したかのようにその美しい柳眉をひそめる一連の仕草までもが淑やかだ。
「あら、失礼。騒々しいのは恭一ではなかったわね」
 彼女は恭一を館の中に招き入れると、当然のようにその前に立ち塞がった。白魚のような左手が髪をかきあげる。少女がまとう花の香りが鼻先をかすめ、一瞬生臭い匂いを覆い隠した。思えば、そのとき、すでにすべては決していたのだ。
「ここは綺堂の家よ。入れるのは彼だけ。さあ、去りなさい!」
 毅然とした声が響き渡り、沈黙が辺りに満ちた。ずっと感じていたプレッシャーはいつの間にか消えている。まるで魔法にかけられたように瞬きを繰り返す恭一に対し、百合睦は何事もなかったかのように扉を閉めた。
「寄って行くでしょう?」
「え、あ……うん」
 今更のように問われて慌てて頷いた。そういえば幼馴染みの家を訪れるのも随分久しぶりな気がする。
 彼女が先導して屋敷の中を行く。玄関を入ってすぐは吹き抜けのホール、正面には螺旋の階段が二階の廊下へと続く踊り場へと延びている。足元は毛の短い絨毯で、革靴の固い足音を軒並み吸収した。百合睦もまた学校から戻ったばかりなのか、恭一と同じ校章があしらわれた制服を着込んでいた。
「アントワネット、お茶を淹れて頂戴」
 屋敷には純然たる客間も存在するはずだが、恭一がそこに通されたことは一度もない。招かれるのはいつも彼女たちが普段の生活を送る居間だった。天井のランプが橙色の優しい色を放つ光の中には六客もの椅子が備えられたダイニングテーブル。壁の向こうは台所になっていて、食器が触れ合う音が聞こえてくる。とはいえ、今準備をしているのは人ではなく、いつもの首なしゴーストメイドなのだろうけれど。
 居間には先客がいた。小柄な背格好から女性であることはすぐにわかる。しかし、総白髪をひとまとめにし、紫苑色の着物をぴしっと着込んでいる上に背筋も伸びているためか、老婆特有の枯れた雰囲気はまったく感じられない。かくしゃくとした、という言葉がなんとも似合う彼女は幼馴染みの祖母、現綺堂家当主、綺堂アヤメ、その人だ。
「こんにちは」
「百合睦、あたしにも茶だよ」
「わかってる」
 恭一の挨拶は普通に無視された。
 百合睦は適当に座って、と言い残すとメイドを手伝うために台所へと向かってしまった。途端、所在のなくなった恭一は仕方なく入口に最も近い椅子へと腰を下ろす。鞄を足元に置き、顔をあげれば、齢七十を超えるとは思えぬ、爛々とした瞳が恭一を鋭く射抜いた。
「難儀な体質だねえ」
 その台詞に問いかけることを、恭一は諦めた。
 老婆の目はすでに恭一を見ていなかった。その視線は恭一の背後を見ている。そこには優雅な彫りがされた飴色の格子がはめ込まれた窓があるはずだ。そして、その先には。
「振り向くんじゃないよ」
 どっと心臓が跳ねた。冷や汗が首筋を伝う。喉元にナイフを突き立てられているかのような殺意。絶対に殺してやる、という強い圧力。どうして自分がこんな目にあわなければいけないのか、理不尽な怒りと恐怖によって震えが止まらなくなる。歯の根は合わず、かちかちと鳴りやまない。
「孫の喝じゃ足りなかったようだねえ。しかし、だからと言ってアタシらに喧嘩売ろうってえのはお門違いだ」
 老婆の声が朗々と響き、何かの気配が怯むのがわかる。その言葉は、声は、綺堂の家にあだなすモノをことごとく排する。
「去りな。ここは綺堂の家だ」
 瞬間。今度こそ本当に、すべての災厄は去った。恭一にはそれがわかった。
 老婆は鼻を鳴らすと、何事もなかったように老眼鏡を手にし、新聞を広げ始める。気が付けば、台所からはかぐわしい紅茶の香り。窓の外では雲の切れ間から晩夏の強い日差しが差し込みつつあった。
 ありがとうございます、という恭一の切れ切れの声を拾ったか。老婆はこちらへ視線を寄越したかと思うと、ニヤリと唇を歪めてみせた。
 綺堂家には女が二人いる。
 正確には生きている女がたった二人だけ、だ。恭一は当然のように、そのどちらにも頭が上がらない。


2018.09.23

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