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現代帝都 陸人魚、金魚売りと遭ふこと

 梅雨の晴れ間と油断して、帽子の一つもかぶってこなかったことを、歩き始めてからものの五分で魚住つづらは後悔する羽目になった。
 鈍色の雲は流れ、覗いた碧空には光り輝く太陽。最早盛夏に劣らぬ威力を発揮する光源を恨めしそうに見上げても、衰えた角膜が焼き付くだけだ。
 未明まで降っていた雨がもたらした高い湿度は不快指数をどんどん押し上げ、不意打ちのように深い水たまりは罠と化して、道のあちこちに点在していた。サンダルを履いた足で注意深くそれらを避けながら、額に浮かんだ汗を拭う。水を含んだ空気がまとわりつくようにして重い。少々気の早い暑さに早くも倦怠感が全身を支配していた。呼吸すら億劫に思えるほどの湿度のなか、民家の向こうに垣間見えるグラジオラスのオレンジだけが慰めのように鮮やかだ。
 民家が立ち並ぶだけの住宅街にほぼ頂点に達した太陽からの日差しを遮るものは何もない。薄っぺらい木製の塀と等間隔で並んだ電信柱のささやかな影に身を隠すように、こそこそと歩を進めていたつづらは路地の先にぼんやりと滲む朱色の鳥居を見つけ、ようやく安堵の息を吐く。
 巴紋を持つありふれた八幡の社はそれなりの歴史を持って地域に根ざし、よく手入れされた鎮守の杜を抱えていた。青々と茂った大樹は色濃い木陰を作り出し、手水社の水の音も、すべらかな黒い砂利の小道も心地よい涼を感じさせる。しかも、境内を突っ切って裏門から抜ければ目的の商店街までは近道になるのだ。
 一石二鳥、と心なしか軽くなったサンダルで早速鳥居へと続く石段へと足を踏み入れる。遠目には鮮明に見えた鳥居も近寄ってみれば経年による劣化の兆しが見えた。くすんだ朱、苔むす寸前の狛犬、落ち葉の降り積もった社の屋根、往来のない半日影に生えるどくだみの群れは白い花を満開に咲かせている。
 ふうっと空気が変わったことは嫌でもわかった。それは人の住む場所とは領域が異なる、というただそれだけの、形式的な線引きをつづらに示しているに過ぎない。帝都にはまだそういった場所がいくつも残されている。人と、そうでないモノたちとの緩衝地帯はありふれていて、それは少なからずつづらのようなはみ出し者にとっても歓迎すべき事実だろう。
 だって、この世界のすべてが人間によって暴かれてしまったら。もう、そこには人間以外の何かが入り込む余地なんてないのだから。
 けれど、感じ慣れたはずの空気も今日はどこか「違って」いた。
 足の裏で小石を踏むような些細な違和感。何度も通り、通い慣れ、見慣れた景色に異物が混入しているのをつづらの神経質な部分が察知する。なんだろう、と頭を固定したまま視線だけを四方に巡らせた。もし、違和感の正体が意志ある「何か」であれば、こちらがそれに気が付いたことを察せられてはいけない、と本能的に感じた上での行動だ。けれど、結局それが徒労に終わっていたことは、つづらにもすぐに理解できた。
 目の前に少年が立っていた。
 年の頃は八つか九つくらいだろうか。耳の下で細い猫っ毛を切り揃えた丸い頭。白皙の肌はおよそこの国の人間とは思えず、しかれど黒々とした大きなまなこに薄い唇をした顔立ちはどこぞの寺のお稚児さんといっても遜色ない面立ちだった。糊の利いた白いシャツ、銀色のモチーフで留められたループタイ、紺色の半ズボンにはステッチがあり、白い靴下も飴色の革靴もまるでおろしたてのように汚れ一つない。
 一言で言えば奇妙だった。
 それは、少年が突如音もなく目の前に現れたことも、薄くたたえたアルカイックスマイルも、額にもうなじにも汗一つかいていないことも、この年頃の少年にあるまじき小綺麗な格好も、何もかもを指したが、それに何より彼が手にした道具が妙だった。
 少年は所謂振り売りが野菜や魚介を売り歩くのに使う、天秤棒に盥を二つくくりつけたものを事も無げに肩に担いでいた。その中身がなんらかの液体であることは、木漏れ日を受けて乱反射する光のきらめきを見ても明らかだ。盥は荷車の車輪ほどもあり、当然水を満たしたそれを前後一つずつ吊せば相当な重量になるに違いない。それに何より、お江戸の力仕事はハイカラな服装となんとも不釣り合いだ。
「金魚いかが?」
「……え?」
「金魚はいかが?赤いの、黒いの、黄色いの、いろいろ」
 革靴の裏が砂利を踏む音が不協和音となって静かな境内を震わせた。一歩、二歩、とゆっくり近寄ってくる少年に魅入られたようにつづらは動けない。
 やがてすっかり目と鼻の距離に立っていた少年と視線がかち合う。その夜の煮凝りに似た瞳の色に見つめ返されるのに耐えられなくて、つと目をそらせば必然的に盥の中身に目が行った。
 そこには少年の言葉通り数尾の金魚が悠然と泳いでいた。赤いの、黒いの、黄色いの。金魚といえば金魚なのだろうが、その可愛らしい言葉の響きに多少相応しくない立派な体格をした魚たちが尾びれを振る度に水面が揺れる。光を返す。鼻を突く強い水の匂い。汚泥にも似た特有の生臭さ。エラで呼吸する、独特の息遣い。
「金魚を食べれば海に帰れるよ」
「え?」
「金魚を食べれば海に帰れるよ。お姉さん、人魚でしょう。海に帰りたいんでしょう」
 断定的な言葉に心臓が一つ脈打った。
 それを合図にしたように、人間同様生存の中核をなす臓器が早鐘を打ち始める。
 なんだ、なにをいっている?
 彼は、なにを、どこまで、しっている?
 わたしは、なにを、期待している?
「…………うそ、よ」
「嘘じゃない」
「嘘よ!あなた、金魚売りでしょう!」
 苦しまぎれに勝手に飛び出した言葉が正鵠を射る。途端、急速に意識が鮮明になった。
 そうだ、この少年は「金魚売り」だ。時折人間の口の端に上ることもある、物の怪の端くれ。金魚を売りつけ、金魚を獲り、また金魚を売る。終わらない循環の中に存在する化け物。
 我に返るとはこのことだろう。初夏の暑さが、湿度が、現実へと帰る。陸にあがってしまったがゆえに、もう二度と海には戻れない、哀れな人魚。陸人魚であるところの魚住つづらは、今、ここに「立っている」。
「金魚、いりませんか?」
「いらない」
「そう」
 大して残念そうな素振りも見せず、少年は一つ頷いただけだった。またのご贔屓に、とどこかよそよそしい声が響き、つづらが思わずまばたきした瞬間、その姿は跡形もなく消えていた。
 境内に一人立つ、つづらは呆然と己の掌を見下ろした。当然指の間に水かきはない。サンダルを履いた脚にきらめく鱗も、汗が伝う喉に赤黒いエラも。なんにも。それなのに、それでも、海に帰りたいか、なんてそんなの。
「当たり前、じゃない……」
 かすれた声は風が梢を揺らす音にかき消えた。遠く西の空で雷が蠢き、重苦しい雲とともに近寄ってくる。まだ先の長い、黴雨の気配が牢獄のように辺り一帯を支配していた。

2018/09/02

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