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FGO 死者なき極楽浄土 -序章-

※新宿のアサシン 真名ネタバレあり※



 生ぬるい空気が頬を撫で、饐えた匂いが鼻をつく。縦横無尽に張り巡らされた錆びた排水管、青白い蛍光灯にきらめく割れた窓ガラス、今にも消え落ちそうなほど点滅を繰り返す電飾、どこかから聞こえてくるノイズ混じりのラジオ、遠い喧騒、されど薄い壁一枚隔てた向こうにある無数の気配。
 踏み出した右足がたまった汚水を跳ね上げ、驚いた鼠が一目散に物影へと隠れた。息があがる。肺が苦しい。走り始めてどれぐらい経っただろう。どんどん昇ってきたような気もするし、緩やかに下ってきたような気もする。視界に入る景色は混沌として、距離感は失われている。入り組んだ路地は東西南北だけでなく上下にも広がり、どこまでも途方もなく続いているように思えた。
 道中すれ違う人々は統一感のない格好をしている。店先で将棋を指す老人二人、赤ん坊をあやす若い母親、薄汚れたぼろ布をまとった年齢不詳、歓声をあげて駆け回る子供たち、薄着で煙草をふかす娼婦、濁声で青菜を売る八百屋、スクラップを無言で選別する上半身裸の男性、熟れた桃を筵に広げる物売りの老婆。
 その誰もが息を切らせて走る朱花を一瞥しただけで目をそらす。
 皆、弁えているのだ。心得ているのだ。この街で、小綺麗な格好をして、何かに追われているふうな少女を気に留めることは、即ち己の身にいらぬ厄災を招くのだと。
『マスター、五時の方角から足音。左の階段、あがれるかい?』
「う……ん!行け、そう……っ」
『走りながら喋るな。舌を噛む』
『慌てることないぜ。上まで行ったら休憩しよう』
「あ、りが、と、ふたりと……」
『『いいから』』
 見事に揃ったユニゾンに朱花はおとなしく口を閉じる。二人の言うことが正論だったのもあるし、酷使している肺がわかりやすく悲鳴をあげたからでもある。今は些細なことでも目立つ素振りは控えるべきだった。それに足を動かしながら口を開くのは想像以上に体力を消耗する。彼らと異なり、生身の人間である朱花は疲労もすれば、注意力も散漫し、単純なミスもしかねない。そのなんでもない失敗が致命傷になることもある、と今まで数多の特異点を歩んできた朱花はよくよく心得ていた。
 レンズ・シバが観測した微小な特異点へのレイシフトに、特定サーヴァントを同行者として勧めてきたのはダ・ヴィンチちゃんだった。
 カルデアの頭脳と言うべき彼女の言い分に対し、朱花は特段の反論もなかった。ただ、万能の天才を称する彼女が提示してきた人選に、どうやら次の任地は随分と治安の悪いところなのだな、とぼんやりした感慨を抱いただけだ。
 一騎目はクラス、アサシン。真名、燕青。
 水滸伝に記される無頼漢、そして、忠義の人。輝く宿星の名は天巧星。カルデアでの彼は、とある特異点の影響で幻影ドッペルゲンガーと混ざり合った形での召喚となったため、完璧に他人になりすます能力を持っている。しかし、その本質はかつての伝説に刻まれた通りだ。義をもって主に仕えることを最良とし、その忠も今は真っ直ぐ朱花へと向けられている。ときに微笑ましい情愛を、ときに苛烈なまでの忠言を。ともに同じ根から生まれる、一見対極に位置するような情動の発露を恐ろしいと感じる感性は朱花には元より備わってはいない。
 二騎目はクラス、アヴェンジャー。真名、巌窟王エドモン・ダンテス。
 世界で最も著名な「復讐者」。鋼鉄の意志をもってして、かの監獄島から脱出し、復讐を成し遂げた者。しかし、カルデアにおける彼は決して救われた存在ではない。その霊基に満たされているのは復讐の黒き炎。失ったものと犠牲となったものの痛みを胸に、パリへと舞い戻った燃え盛るアヴェンジャー。だからこそ、彼は朱花を「共犯者」と呼ぶ。失われた愛の形でもなく、行く先を照らす希望の光でもなく、やがて得ることになる寵姫でもなく。唯一無二の存在として、朱花を認識する。
 脚が重たい。
 勢い余って曲がり角で打ちつけた二の腕が今更のように鈍痛を訴える。履き慣れた靴なのに足の指が痛いのは、がらくたを避けて走るせいだろうか。
 吸い込んだ空気は相変わらず甘くとろけるような腐敗臭と飽和状態の湿気を含んでいた。ちゃんと酸素を取り込めているかもわからない。加えて朱花の故郷である日本の夏を思わせる、むわっとした高温は身体中にまとわりつき、不快感とともに意識をふらつかせる。
 一方、霊体となって同行するサーヴァントには気温も湿度も関係ない。マスターである朱花を媒介にしてカルデアと繋がり、影のような形でその存在を維持している二人の声は、たとえ姿が見えなくても朱花の意識に直接響く。
『おまえが軽々しく手を出すから追われる羽目になるんだ、アサシン』
『先に手を出して来たのはあっちだろ?なんならあれか?旦那はマスターがあいつらに乱暴されてもよかったってのかよ』
『そうは言っていない。俺のマスターであれば、おまえが手を出さずとも上手く立ち回れた、と言っている』
『……ん、だって?』
「ア、サシン、アヴェン、ジャー、喧嘩しない、で……」
 走りながら喋らない、という言いつけを破って、息も切れ切れに割り込めば、ハッとしたような気配が伝わってきた。言い争いをしている場合ではないと我に返ったのだろう。一瞬の間のあと、あー、と取り繕うような声を出したのは燕青だ。
『悪い、マスター。すぐ先、休憩できそうだぜ』
『……追っ手もないようだ』
 その言葉にようやく張り巡らせていた緊張感がわずかに緩んだ。
 ゆっくりと速度を落として足を止めた途端、全身の毛穴からどっと汗が噴き出す。しばらく肺を労って、呼吸を落ち着かせることに専念する。コンクリート壁にそろそろと背中を預け、顎を伝う汗を拭えば、ようやく辺りを見渡す余裕が出てきた。
 トタン屋根がパズルのように組み合った先に白く霞んだ青空が見えている。足を付けた場所は明らかに大地ではなく、人工的な床だったけれど、正方形に形作られた空間の真ん中には土が入れられ、百日紅の見事な大木が青々とした葉と鮮やかな薄紅色の花を清々しく広げていた。まるでビルの合間に作られた中庭、それも空中庭園だ。もっとも、転がった空き缶や景色の合間に見える洗濯物がそんな情緒的な単語を彼方に遠ざけてはいたのだけれど。
 深く息を吐いて呼吸を整える。淀んだ空気を介して届く日差しは苛烈ではないが、それなりに肌を焼いた。どこかで金属を打ち付ける音がする。すぐ近くに人の気配はないようだが、この街には営みが満ちている。それも極めて日常的で、平凡な、なんの変哲もない、普通の暮らしが、だ。
「これからどうしようか?」
『ひとまずは身を隠せる拠点を定める必要があるだろうな。すでにおまえは目を付けられている』
「うん。無闇に歩き回るのも危険だけど、ずっとここにもいられないし。カルデアとの通信も場所によっては回復するかもしれないしね。燕青もそれでいい?」
 同意を求める声に返事はなかった。聞こえてないはずはないのにどうしたというのだろう。もう一度呼びかけようとしたところで、マスター、と切迫した声が朱花を呼んだ。
『追っ手だ。さっきの階段あがってくるぞ』
 否が応でも伝わる緊張感が朱花の背筋をぞわりと震わせた。
 レイシフト完了直後に対峙した屈強な男たちの妙に座った目が脳裏に呼び起こされる。先程のやり合いを見る限り、いざとなれば巌窟王と燕青で対処可能だとは思うが、現状では極力魔力や体力は温存したい。
「逃げよう」
『走れるか?』
「大丈夫」
 うん、大丈夫。震えてはいない。足はもつれない。怖くない、と言えば嘘になるけれど、「私はまだ最善を尽くせる」。
 行こう!と行く当てもないまま足を踏み出したその瞬間、朱花の手を誰かが引いた。
 否、それは味方である「誰か」のはずがない。だって、二人は今、実体化していない。息を呑む己のサーヴァントの気配。カタカタと走馬灯のように記憶が、意識が、判断が、勢いよく駆け巡る。何かしなくては。そうでないと、今ここで、わたしは。
「静かに。向こうの道へ入ってもすぐに追いつかれます」
 鼓膜を打ったのは想像していた以上に理知的な声だった。しかも、どこか聞きおぼえがあるような気もする。それを深く追求する余地も与えられぬまま、緊迫した声が続けざまに告げた。
「こちらへ。抜け道になっています」
 引き込まれたのは薄暗い路地だった。
 人間一人通るのがやっとの幅にトタンの壁が遥か頭上まで届いている。壁はなぜか上に行けば行くほど先細り、複雑に絡み合った配管や、用途不明の鉄板などによって完全に塞がれている。だから、こんなに薄暗いのか。妙に納得して前に向き直れば未だぼんやりとした影としか認識出来ない誰かが無言のまま、急ぎ足で歩を進めていた。
 付き添いのサーヴァント二騎が黙していることからも、どうやら相手に敵意はなく、朱花を陥れようという気もその背中からは感じられない。ならば、どうして助けてくれたのか。この街、この特異点はそういった善意を拒絶する場所だと思っていたのだけれど。
 警戒は怠らぬまま、それでも彼について行ったのは行く当ても何もなかったから、という単純な理由もある。けれど、実際のところ朱花は己の直感を信じたのだ。きっとこの人は誰かを騙したり、貶めたりする人ではないのだろう、という根拠なき確信を。
 やがて前方から薄っすらと光が差し始めた。徐々に「誰か」の容姿が明らかになる。光に透ける白銀の髪、明らかに欧州を起源とする人種特有の白い肌、まとっているのはこの特異点に来てからよく見かける民族衣装。見るからに上質とわかる生地には見慣れぬ紋様がちりばめられていた。
「ここまで来れば大丈夫でしょう」
 眩い光の中、彼が振り返る。アイスブルーの澄んだ虹彩の色。薄い唇。整った柳眉。まさかそんなはずは、という思いと、ひょっとして、という期待が交錯し、朱花の唇から声が漏れる。
「サン……ソン?」
「おや、僕の名前をご存知とは……おかしいですね。僕は患者の顔を忘れたことはないんですが」
 首を捻った彼は嘘をついているようには見えなかった。どこまでも実直で誠実な、朱花のサーヴァントとまったく同じ顔で彼はにこりと笑ってみせる。
「不要かもしれませんが、改めまして。僕はシャルル=アンリ・サンソン。この街で中医をやらせてもらっています」






2018.07.08

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