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カリギュラ 花の雨降る吉日に

 たとえば、あのとき右じゃなくて左を選んでいたら、なんて瞬間が誰しも一度くらいはあるはずだ。
 たとえば今日の帰宅部の活動が早めに切り上げにならなかったら。たとえば彩声が部室を後にする集団の最後の一人でなかったら。たとえばそのタイミングで一人思案しているふうの部長に気が付かなかったら。
 たとえば部室の中央に常に位置する会議机が散らかっていなかったら。たとえば部長の片付けてから帰ろうかと思ってという一言がなかったら。たとえばその気軽な気持ちで始めた片付けに予想以上に時間がかかったりしなかったら。
 たとえば、常に好天を維持するメビウスがまるで不具合を起こしたかのような土砂降りを突如として引き起こさなかったら。
 今日、この事態は発生していなかったに違いない。
「あがって。タオル持ってくるから」
 この世におわす神仏の類を一切信仰していない彩声ではあるが、今日限りは五体投地の上、感謝の限りを尽くすほかない。
 何しろ結果的に虎視眈々と窺っていた部長の自宅へと訪問する機会をごく自然に得ることができたのだから。
 現実へ一刻も早く帰りたい気持ちには変わりないけれど、同時進行で恋する気持ちもまた止められない。そう、天本彩声は帰宅部部長こと花巻零理に恋してる。
「彩声、お待たせ。これ使って」
 首にタオルを提げ、明るい色をした髪から雫を滴らせた少女の姿にしばし見とれる。同じく薄い色をした虹彩、すっと引かれた涼やかな柳眉。白い肌は白皙と呼ぶに相応しく、華奢でありながらも伸びやかな身体は優美な猫を思わせる。何よりその落ち着いた柔らかな声音はどうあっても。
「彩声?」
「……あっ、え、ごめん!」
「大丈夫?」
 ぼーっとして、と苦笑いしながら手渡されたタオルからはジャスミンに似た香りがした。ふざけているのを装って彼女へとじゃれついたときに香っていたものと同じ、甘くまろやかな花の香だ。
 柔軟剤だったかあ。
「服、着替える?大体サイズ一緒だよね」
「だ、大丈夫!そんな濡れてないし!」
 そう、とゆったりした仕草で首を傾げた彼女は彩声の不審な挙動にもあまり疑問を抱いていないようだった。
 それはそうだろう。彼女にとって彩声はメビウスという仮想空間における同級生に過ぎない。現実へ帰るという目的を同じくした帰宅部の仲間に過ぎない。あくまで同年代、しかも同性の彩声が自身に対し、あえかな恋慕の情を抱いているなど、想像もしていないに違いない。
 濡れた足先を突っ込むことが憚られ、勧められたスリッパを丁重に辞退した末に招かれたリビングルームはこざっぱりと片付いていた。
 生成色のカーテンに艶やかな葉を茂らせた観葉植物、毛の短いラグマットには髪の毛一本落ちていない。キャビネットを兼ねたテレビ台、厚みのある本が数冊もたれかかったブックスタンド。盗み見た背表紙のタイトルは聞きおぼえのないものばかりだった。ファブリックの類は所謂北欧スタイルと呼ばれる幾何学模様で統一されていて、あらゆる布製品がその例外ではないようだ。中でも深い緑色をした布張りの二人掛けソファはシンプルながらも丸みを帯びた背もたれと肘掛けが好ましいバランスを保っていて、部屋の中央に鎮座するに相応しい存在感を放っていた。
「そこ、座ってて」
 彼女がわざわざクッションをどけてくれた場所に腰を下ろせば、椅子を二脚備えた簡素なダイニングテーブルが真正面に、視線をずらせば銀色に輝くシンクと二つ口のコンロを備えた小さなキッチンがある。カトラリー入れ、茶葉や珈琲の缶、調味料の入ったボトル。それらすべてに彼女の好みや思いが反映されている。
 いや、それは彼女の領域に踏み込んだ瞬間から感じていたことだ。彼女の部屋、彼女が触れるものすべて、健全な彼女の意識が宿っている。花柄の刺繍が施されたブランケットにも、テーブルに置きっぱなしの栞にも、シンプルな花瓶に活けられた白い花にも、取り出されたケトルにも、すべて。ここはまさに生身の彼女がごくありふれた日常を送る、生活の場なのだ。
 その当たり前かもしれない事実一つに、天本彩声は途方もない安堵をおぼえる。
 現実に帰りたい、という利害の一致のみで行動を共にする個性派揃いの帰宅部をまとめあげ、常に冷静沈着、乱れぬ水面のようにすっと佇む彼女はまるで現実感を伴っていなかったのだ。ともすれば、彼女は私たちが作り出した空想上の存在なんじゃないか、この「物語」を正しく導くためのNPCに過ぎないのではないか。そんな、一笑に付すべき妄想が脳裏をよぎるほど、彼女は完璧だった。だから、こうして普通に彼女が生活していること自体、彩声にとってはある意味衝撃で、そして、同時にとんでもなく嬉しい。彼女は自分と地続きの世界に存在する。メビウスだけじゃない。帰るべき地獄においても、花巻零理という人間は確かに存在している。
「彩声、紅茶でいい?」
「うん、ありがと。……ねえ、部長ってひとり暮らし?」
「うん。現実でもそうだし、早く自立したいって思ってたから……メビウスでもμが気を遣ったんじゃないかな」
 カチャカチャと陶器が触れ合う音がする。ケトルが吐く湯気の向こう、下を向いた睫毛が長い。その横顔はとてもじゃないが、世界に対して無敵を誇る少女のものではなかった。それは何もかもが思い通りにならないことを思い知り、女にならざるを得なかった、かつての少女の顔だ。彩声は、その顔を痛いほど、よく知っている。
「部長、」
「ん?」
 彩声の声に彼女は柔らかなトーンで答える。空調のきいた快適な空気に二人分の呼吸と紅茶の香りが溶けていく。
 外はまだ雨が降り続き、ぱたぱたと窓ガラスを水滴が叩いていた。レースのカーテンの向こう側にある空は灰色の鉄板のように横たわり、今にも街ごと押し潰すかのような圧迫感を等しくすべてに与えている。
「あのさ……部長が迷惑でなければ、なんだけど、また来てもいい?」
 手にしたタオルをきゅっと握り締める。きっと彼女は断らないだろうという確信めいた予感があったが、それでも返答があるまでの数秒間、凍てついたような沈黙が彩声の上にずん、とのしかかった。
「それは、別に構わないけど」
「ほんと!?」
「でも、うちに来ても面白くはないよ?」
 ご覧の通り何もないし、と続けた彼女の言葉を彩声はもう半分くらい聞いていなかった。ただ、ふわっふわとした感情が頭と心の大部分を占め、浮ついた気持ちが足の先にも出てしまう。
 彩声がぱたぱたとスリッパを上下しているのに気が付いたのだろう。軽やかな笑い声が零理の口からこぼれ出た。
「あっ、ごめ、勝手にはしゃいで……!」
「謝らないでよ。彩声のそういうところ、私好きだな」
「え!?」
 目を見開いて硬直した彩声を尻目に彼女は二人分のカップをのせたトレイを持って、なめらかにソファへと近付いて来る。
 鼻先をくすぐるアールグレイの香り。
 ああ、これ私の好きなやつだ、部長おぼえててくれたのかな、と些細で幸福な気付きになおも酩酊が深まる。きっとこれは恋の病なのだろう。こんな、頭の中がふわふわな私を、私は知らない。こんな、美しい人を私は知らない。こんな、大好きな人を、私は。
「じゃあ、彩声のおすすめのゲーム、持ってきて欲しいな。私、あんまりやったことなくて」
 彩声と一緒にやりたい、と整った笑みで告げられた言葉に、彩声は必死に頷くことしかできなかった。


2018.06.30

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