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カリギュラ 咲いてひと夏、恋花火

 メビウスこと電脳空間に作られた仮想都市、宮比市は今日をもって連続真夏日五日目を迎えていた。
 苛烈な太陽の日差し、不快指数を底上げする湿度、振り絞るように轟く蝉しぐれ。何もかもが日本の正統な夏を形作る重要な要素には違いなく、ゆえに壮絶な違和感がまとわりついている。
 そもそもここはメビウスだ。季節は巡らず、常春が続き、住人は永遠の高校生活を送ることこそ至上と定義された世界において、この気候はまったく相応しくない。
 しかし、突然の変化を不審に思っているのはここが偽りの世界だと気が付いている一部の者たちだけのようだった。
 メビウスという作り物であるがゆえの矛盾を内包した世界に対して、なんの疑問も持たぬよう洗脳を施された大多数の生徒たちは当たり前のように夏を受け入れ、制服を衣替えし、夏のイベントについて語り合っている。
 零理も今更ながら今朝、身に覚えのない半袖シャツがクローゼットの隅に引っかかっているのを発見した。悩んだ末に結局いつもの制服を着てきたのだけれど、さすがにジャケットは袖を通す気にはなれず、長袖をまくりあげるに留めた。
 うなじを伝う汗が不愉快極まりない。数日前まで霞がかったような春の陽気の中にいたから、余計にそう思うのかもしれない。サスペンダーを引けば特に身体と密着する肩部分に薄らと汗をかいているのがわかる。位置をずらし、ついでにずり下がったソックスを直せば、そこもじっとりと湿っている。
 これだから夏は。
 知らず、愚痴っぽいため息が口から漏れた。
 旧校舎三階、帰宅部が根城とする音楽準備室にひと気はない。理由は明白で、旧校舎は空調の類いが一つも設置されていないからだ。午後の日差しがこれでもかと降り注ぐこの時間帯、部屋は蒸し風呂の如き高温多湿に苛まれる。立っていても座っていてもただ暑く、加えて今日は風もなかった。開け放した窓に降りたカーテンはそよとも動かず、ただ暑さを助長する蝉の声だけが延々となだれ込んでくる。
 そんな惨状に対し、部員たちは早々に部室から退散するという極めて合理的な行動をとっていた。
 正直、この気温では帰宅部の活動どころではないし、不測の事態が起きた際はWIREで連絡を取れば済む話だから、なんの問題もない。
 それを承知していながら零理が音楽準備室に来てしまったのは、最早ただの習慣に過ぎないと言っていいだろう。皆と違って向かうべき場所が思い付かなかったというのもあるが、なんとなく放課後はここに寄らないと落ち着かないのだ。
 部員のいない部室はがらんと広い。
 著名な音楽家の肖像画、五線譜の描かれた黒板、空の楽器ケース、メトロノーム、色褪せた譜面の束。埃臭い学校の匂いをまとったそれらはいずれも素っ気なく沈黙している。実際、音楽とは無縁の生活を送ってきた零理も音楽準備室自体やそこに並んだ道具に馴染みはなく、触れてみようと思ったことすらない。仲間たちと語らう際にはただの背景と化しているそれらが、一人になった途端、強烈な存在感を発揮する様はなんだか不気味だった。
 一度でもマイナスの印象を抱いたのがいけなかったらしい。普段はなんとも思わない景色の数々が妙に薄気味悪く感じられてきた。居心地が悪い。
 少し早いがメビウスでの自宅に帰ろうかと思案した矢先、見計らったかのように机の上のスマートフォンが振動する。
 画面にはメッセージアプリからの通知が表示されていた。人差し指でスライドすれば、目に入ってくるのはデフォルメされたウミウシのアイコン。メッセージは簡潔に『部長、たすけて!』。
 送信者は言わずもがな帰宅部の仲間でもあり、同じ吉志舞高校の二年生でもある天本彩声。その緊迫感のある内容に非常事態かと腰を浮かしかけた零理は、立て続けに送られてきたメッセージにすぐさま考えを改めた。
『いつの間にか外、人混みになってる!』
『全然途切れないし、男もいっぱいいるし…』
『出れない…』
 段々と勢いが弱まっていく文字列に余程彼女が疲労困憊しているのが伝わってくる。
 彩声の男性恐怖症は筋金入りだ。
 たとえ帰宅部の男子部員で多少慣れたとはいえ、その問題の根はあまりにも深い。数メートル接近できるようになっただけで、大きな進歩といえる彼女にとって、いつ男性と接触するかわからない人混みは恐怖以外の何ものでもないだろう。何よりパニックになると強烈な悲鳴をあげて相手を突き飛ばす彩声を放置していては、不幸な怪我人がいつ出るともわからない。
 悩んだのは数分にも満たなかったと思う。
 零理は素早くメッセージを送ると颯爽と部室を後にした。
『今どこ?』
『さすが部長ー!シーパライソ駅前のカフェだよ!』

***

 吉志舞高校前駅からシーパライソの最寄り駅までは電車でわずか数分の距離となる。
 乗り込んだ車両は空調が効いていたが、いつにない乗車率でぎゅうぎゅう詰めだった。まったく身動きの取れない中、どうにか首だけを巡らせれば中吊り広告には大きく花火大会の文字。場所はシーパライソ沖の海上、日付は当然今日だ。
 毎日見ているから景色の中に埋もれてしまって気が付かなかったのだろうか。彩声にしては迂闊だと思うけれど、まあそんな日もあるのだろう。そもそもシーパライソでの花火大会なんて、これまでの「繰り返し」ではなかった出来事だ。予想すらしなくて当然か。
 乗客の大半は当然同じ駅で降車する。その流れに乗って零理も卒なく改札を通り抜けると、そのまま人波に逆らわずにシーパライソ方面を目指した。
 夕暮れを間近に控え、辺りにはいよいよ祭の日の特別な空気が漂っている。通りは歩行者天国へと切り替わり、歩道には赤や黄色のテントを張った屋台が幾つも並んでいた。すでに裸電球は橙色の光を放ち、鉄板は軽快な音を立てている。思っていたよりもずっと本格的な様子にひょっとしてこの連日の真夏日自体が花火大会のためなのだろうか、と零理は思った。
 別になんら確信があるわけではないのだけれど。祭は夏に限る、という主張はわからなくもない。
 通りを人に揉まれながらしばらく行くと、ようやくばらばらと動く黒い頭の群れの向こうに目的のカフェが見えてきた。
 ストライプ模様のテント屋根にオープンテラスを備えたカフェは花火大会の前に涼んでいく客で文字通りあふれかえっていた。通りに面した大きなガラス窓から注意深く店内を覗く。カップルやグループなど、どのテーブルも複数人の客が賑やかに占拠する中、壁と観葉植物によって微妙に死角となった席に目的の人物はいた。
 柔らかな髪は俯きがちなせいで頬にまでかかり、長い睫毛はその白い肌に淡い陰影を落としている。一見して華奢な、人形じみた造形は彼女の魅力の一端に過ぎない。彩声の美点は、その豊かな感情とくるくる変わる表情にこそある、というのはただの贔屓目だろうか。
「彩声」
 喧噪の中、零理の声を過たず拾った少女が顔をあげる。その瞬間の、まるでつぼみがほころぶような、可憐な花が開くような、鮮やかな変化を零理はいつも心臓を掴み取られるかのような衝撃をもって受け止める。
「部長!」
「大丈夫?」
「うん、平気」
「外、出れそう?」
 テーブルの上のグラスにはすでに溶けきった氷のなれの果てが沈殿していた。その様子からしてかなりの長時間、やむにやまれず席についていたに違いない。いくら空調がきいているとはいえ、このまま居続けるのは辛いだろう。しかし、かといって外には相変わらずの人混みが続いている。彼女にとってはいつ男性と接触してもおかしくない、という恐るべき状況だ。
 案の定、即答はできず、躊躇いと不安から沈んだ表情になってしまった彩声に、零理はふっと息を吐いた。
「もう少し経ったら駅から来る人も減るから。そうしたら、外に出よう」
「でも……」
「手、繋いであげるから」
 途端、元よりまん丸の瞳はこぼれ落ちそうなほどに見開かれた。可愛らしいネイルが似合うほっそりとした手は意味もなく宙を彷徨い、視線はあたふたと泳ぎ回る。あの、その、と実に歯切れの悪い単語の断片が吐き出されたかと思えば、次の瞬間にはぐっと唇が引き結ばれる。
「い、いいの……?」
「いいよ」
 やった……! という小さな台詞と控えめなガッツポーズは見なかったことにしてあげた。
 いそいそと荷物を片付ける彩声を余所に視線を外に向ければ、夏の宵闇迫る通りからは案の定ひと気が引きつつあった。花火大会の開始時間が迫ったことによって、すでに多数の人がシーパライソに入園したことと駅に到着する電車の切れ目が重なっているらしい。これなら彩声に恐ろしい思いをさせることなく、駅まで行けそうだ。祭の会場から離れる車両は空いているだろうから、そこまで行けば一旦心配はいらない。
「おまたせ!」
 勢いよく立ち上がった彩声が満面の笑みで右手を差し出してくる。その現金な態度に苦笑しながらも、零理は彼女の手を取った。この世界で同い年の少女としてある彼女の掌は温かく、柔らかい。
「行こ」
 連れ立ってカフェを出ると、太陽が落ちかけた夕暮れ時の空気は変わらず不快なほどに蒸し暑く、けれど日差しがなくなっただけでもだいぶ過ごしやすくなっていた。
 いよいよ打ち上げの時間が近いのか、零理が電車を降りた頃と比べれば人波は驚くほどに減っている。代わりにテキ屋の威勢のいい声が色んなところから飛び、カフェのすぐ近くに構えている焼きトウモロコシ屋の店主の姿に彩声が身を強張らせるのが掌ごしにも伝わってきた。大丈夫、と言い聞かせるようにその手を握り返し、零理はゆっくりと歩を進めた。彩声は零理の少し後ろを一歩一歩確かめるような足取りで付いてくる。
 そういえば誰かと手を繋いで歩くなんて久しぶりだ、と零理は思う。
 幼少期の記憶に両親とのそれはない。現在に至るまで恋人と呼べるような相手もいない。精々、中学や高校のときに女友達とふざけて手を握ったぐらいじゃないだろうか。別にそのことに惨めさを感じるわけでもないけれど、我ながら淡々とした人生を送ってきたものだ。思えば深く感情を揺り動かされるほどの大事に直面したこともないような気がする。どこまでも平坦に花巻零理の人生は時間の流れに従順に進んできた。そして、それはこれからも、きっと続くのだと、なんの根拠もなく信じていたのだけれど。
「あの、部長」
 微かな声が零理の意識を引き戻す。首を捻ればわずかに頬を染めた彩声が大きな瞳でこちらを見つめていた。その紅潮が夕焼けのせいでも、暑さのせいでもないと、気が付かないほど、零理は鈍感ではない。
「私、手汗すごくて……気持ち悪く、ない?」
「暑いし、仕方ないよ。私は気にしないから」
「ほんと? まだ繋いでてもいい?」
 頷くと、彩声は安堵したように肩の力を抜いてふにゃりと笑った。
 気が付けばそこはもう駅の目の前だ。待ち合わせと思しき人々がぽつぽつと佇むだけのここでは確かに手を繋ぐ必要もないように思える。けれど、つい今し方うんと言った手前、すぐに振りほどくのも憚られ、何より彩声のその顔が零理を躊躇わせる。
 ふわふわの綿菓子みたいに浮ついて、甘い林檎飴みたいに頬を染めて、そのくせ金魚すくいみたいに緊張して。ああ、こういうの、なんて言うんだっけ?
「あ、見て!」
 彩声の弾んだ声につられるように、その指先が示す先を見る。次の瞬間、すっかり日の暮れた群青色の夜空に咲くのは光と炎の花。数秒遅れて炸裂する音ともに繰り広げられるショーは建物と街路樹の隙間からわずかに見える限りだったけれど、目を奪われるのには充分だった。
 思わず瞬きも惜しむように見とれれば、横に並んだ彼女がわずかに笑うのが雰囲気でわかった。何、と問えば、少女は何でもないとかぶりを振るい、綺麗だね、と言う。真っ直ぐ、怯まず、零理の目を見て言う、その姿が、私はとっても。
「うん、ほんとに」
 綺麗だと思うのだ。失ってはいけないと、失うわけにはいかないと、思うのだ。ひと夏に咲いて散る花のように刹那ではなく、永遠にあればいいと強く願うほどに。願って、しまうほどに。
 繋いだ掌は汗ばんで、最早どちらが放ち、受け止めた熱なのかもわからない。ただ、そっと力を込めれば、それに返すわずかな圧力がさざ波のように零理の鼓動を早めていった。


2018.06.03

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