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カリギュラ 欠け骨の白百合

 中天に鯨の骨みたいな三日月が一つ、目も冴えるような白さでひっかかっていた。
 この世界にも月は昇るし、満ち欠けもする。ただし、それは紛い物で、ただのコピーで、まやかしだ。緞帳の向こうで揺れるボール紙の月よりはリアリティがあるのかもしれないけれど、あくまでデータの集合体に他ならない。
 メビウスに雨は降らない。暴風は吹かない。季節は巡らない。
 常にぼんやりとした春の気候が気怠げに停滞している。暑くもなく寒くもない気温は概ね快適と言っていいだろう。けれど、快適とはつまり、取るに足らないということだ。心に残らない。印象にない。だからこそ日々はなんの苦痛もなく過ぎ、平和で穏やかな時間は繰り返す。
 常春の世界は妖精の国。ここは正しく万人の幸福を追求するために作られた理想郷。
 この世界を作り上げたバーチャドールはどうしたらここにいてくれる?と、純粋無垢に問いかける。ここにいて不幸なわけはない。もっと幸福にしてあげる、と残酷なまでに断言する。
 その甘い誘惑にのったのは他ならぬ自分だ。
 手放したら楽なのに、と耳元で囁かれた気がして、ふっと一瞬肩の力が抜けた。ぜんぶ、忘れちゃえばいいのに。忘れられればいいのに。花巻零理(はなまき れいり)という人間の辛くて、悲しくて、ままならない何もかも全部。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、消し去って、そうしてまっさらで透明な新しい「私」になれたとき。
 そこにいたのは「私」じゃなかった。
 そのとき、初めて零理は恐怖を感じた。
 自分が崖っぷちから底のない奈落へとすでに半歩踏み出していたことを自覚した。
 当たり前のように積みあげてきた記憶が零理を形作るすべてに他ならないなら、それをなくした零理はもう零理ではなかった。そんな簡単なことさえ忘れていたなんて、どうかしていたとしか思えない。否、実際、零理の心は歪み、疲れ果て、正常な判断などできていなかった。あのとき、あの瞬間、「私」は確かに。
 この何一つ思い通りにならなかった、どうしようもない現実からの離脱を望んだのだ。
「あー。いけないんだ」
 背後から聞こえた声に振り返れば、リビングルームに続く掃き出し窓の向こうに、もこもこのルームウェアに身を包んだ少女がいた。
 肩まで伸ばした髪を指先に絡めるいつもの癖。ぱっちりとした目鼻立ちと意志の強さを感じさせるミルクティー色の瞳は何よりも魅力的な彼女のチャームポイントで、たぶん本人もそれを自覚している。程よく丸みを帯びた小柄な体躯はしなやかで、全体的に血統書付きの優雅な長毛の猫を思わせる。そう、本人に告げれば彼女はまあるい瞳を細めてくすぐったそうに笑うだろう。
 彼女の名は天本彩声。零理と同じくメビウスから現実への脱出を図り、帰宅部に所属する仲間だ。
「一応、ここでは高校生なんだからね」
 甘ったるい声が咎めるように言うのを聞いて、零理はようやくその小言が自分の手にした煙草のことを指すのだと気が付いた。
 現実ではとっくに成人を迎えている零理は喫煙者だ。ヘビースモーカーというわけではないが、食後や休憩時間など日常的に嗜んでいる。まだメビウスが現実でないと気付く前、普通の高校生をしていた頃はちゃんと禁煙できていたのだけれど、気が付いてしまってから習慣が戻ってくるまではあっという間だった。どうやらニコチンの中毒性はこんな緊急事態であっても、相当の持続力を発揮するらしい。
 外見が高校生である以上、さすがに学校や街中でおおっぴらに吸うことはしない。自宅のベランダでなら気兼ねなく吸えるかと思いきや、今日は彼女がいたか。
「煙草嫌い?」
「好きじゃない」
「そう」
 吸いさしを携帯灰皿でもみ消す。湿り気を帯びた夜風が零理の髪を乱し、同時に紫煙の匂いも吹き飛ばしてくれる。
 猫のように注意深くそれを見届けた彩声は室内用のスリッパのまま、ベランダへと出てきた。室外機と物干し台に挟まれた窮屈な隙間、手すりに肘をつく零理の隣に彼女はするりと身をすべり込ませる。その身のこなしはあまりに自然で、零理はいつもパーソナルスペースの侵害を甘んじて許してしまう。
 苛烈なほどの男性恐怖症、そして男性への強烈な敵意と嫌悪が彩声の印象を決定付けてしまっているのは間違いない。しかし、本来の彼女は周囲に愛され、愛されていることを理解し、また同様に周囲を愛することを当たり前に生きてきた人間だ。それは、こうして言葉を交わし、空間を共有し、時間を共にすればすぐにわかった。
 彼女は、私とは違う。
 その差異が零理を期待させ、失望させ、また歓喜させる。持たざる者が持つべき者へ向けるのは羨望だけではない。眩しいほどの光に引き寄せられ、心地よいほどのぬくもりに目を閉じるのは決して憎悪からだけではない、と零理は信じている。
 空には相変わらず冴え冴えとした光を投げ打つ月が当然のような顔をして鎮座する。
 彩声はしばらく魅入られたように月を見上げ、やがてふうと軽くため息をついた。まるで魂が羽のように剥離して飛んでいってしまうかのような、軽やかな吐息だった。
「部長はいいよね。怖いもの、なんにもなさそうで」
 そうして、なんでもないふりをして、そんなことを言う。零理はかぶりを振って、答える。そんなことない、と。
 そんなことない。それは紛れもない真実だ。
「たくさん、あるよ。怖いもの」
「ふうん」
 鼻息混じりの答えとともに注がれる視線には信用してませんと但し書きでもしてあるかのようだ。まったく信用されていない。その軽快な態度が悲しいやら嬉しいやら。
 どうやって宥めようか、思案している間に少女の整った顔が間近に接近してくる。すんすん、とわざとらしい仕草でひとしきり匂いを嗅ぐと、少女は勝ち誇ったような、心底つまらないような、寂しいような、零理には一生かかっても解読できないような複雑な表情で断言する。
「嘘ばっかり」
「なにそれ」
「嘘つきの匂い。私、わかるの」
「嘘ばっかり」
「ばれた」
 ああ、それはなんて安直なことだろう。
 くすくすと笑う少女と頬を寄せ合う。作り物の月明かりの下、零理はこれまでの人生を呪い、そして祝福する。メビウスを作り上げた歌姫たちを思い、涙し、そして歓喜する。嘘だけで作られた幸福の国。誰もが姿を偽り、誰もが理想を手に入れ、そして誰もが幸せになることなど決してできない矛盾の王国に、今、少女が二人、顔を突き合わせて笑っている。
「はあ、おっかしい。部長って変な冗談、好きだよね」
「それ、彩声のことじゃない?」
「えー?」
「ねえ」
 髪に触れる、額を合わせる、面食らったような顔をした一瞬あと、彼女はわかりやすく赤面する。
 けれど、生まれた何かを夜気はすぐにさらっていく。連れて行かないでとも早く連れて行ってとも思う。遠い信号の点滅、どこかの誰かの家の明かり、無数の営み、そのいずれもであって、いずれでもない私たち。この楽園から早く逃れることを願うイヴとイヴに明日はあるのか、なあんてタチの悪い冗談にもならない。
「もう煙草の匂い、しない?」
「し、ししし、しない!」
 彼女の肩口に鼻先を寄せれば、花の香に似せた石鹸の匂いが鼻腔の奥深くまでを支配する。零理は無性に煙草を吸いたくなったものの、肺の底から一つ、大きな深呼吸をするに留めた。


2018.05.27

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