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現代帝都 麦食みのルサンチマン

 母が死んだ。平凡な交通事故だった。
 仕事帰り、近所のスーパーマーケットの袋を提げて青信号の横断歩道を渡っていた羊草麻子は信号無視のトラックにはねられた。バンパーへの衝突、加えてアスファルトへの頭部強打。即死だっただろう、と医師は誰もが導き出すと思われる当たり前の診断を下した。
 頭部への衝撃に反して、顔面の損傷が少なかったのはこの場合幸福なことだったのだろうか。眠っているだけみたい、という凡庸な感想を羊草麦は喉の奥に押しとどめた。心臓は速やかに止まって、母は家に帰ってきた。まるで母自身がそう望んだかのように。
 年季の入った平屋には終ぞ見たこともない「親族」や「近所の人たち」が入れかわり立ちかわり訪れ、忙しなく世話を焼いていった。ほとんど物置と化していた六畳の客間は即席の弔いの場となり、座布団は積み上げられ、卓袱台には弔問客へ振る舞う茶が入った急須が準備された。今日この日まで麦は自宅にこんなものがあるなんて思いもしなかった。ひょっとしたら母も知らなかったかもしれない。しかし、なんという続柄に当たるのかもわからない中年の女性たちはさも当たり前であるかのようにそれらを探し当て、茶を淹れ、飯を炊き、盛んにお喋りをし、そして夜には一斉に帰って行った。
 古い箪笥の匂いをさせた女たちがいなくなると、途端に家の中はがらんとしたもの寂しい雰囲気に包まれた。
 台所の食卓、いつもの定位置に腰掛けて、麦は息を張り詰めていた。用意された肉じゃがや漬物は器に盛られてラップをされ、今すぐにでも食べられそうだったが、とても手を付ける気にはならない。
 麦は今日この日から平凡な女子高生ではなくなってしまった。世間知らずの学生といえども天涯孤独の身となって、今まで通りの生活が送れるとはとても思っていなかった。母の残した預貯金はそれなりにあるだろうが、麦が私立の女子高等学校を苦なく卒業できるほど潤沢かと言えば決してそうではないだろう。麦の身元は親族の誰かが引き受けることになると思われるが、そちらにも事情や家庭があるだろうし、やはり「今まで通り」の見通しなんて立ちようもない。
 この制服ともお別れか。
 別段強い愛着があったわけではないが、それはあくまで卒業までこの制服を変わりなく着ているという未来予測の上で成り立つものだった。いざ、失うとわかればそれはひどく惜しい。紺色のソックスも、黒光りするローファーも、程よい丈のプリーツスカートも、白のリボンも、襟を縁取るテープも、ぜんぶ、全部。
「……やだな…」
 嫌だった。率直に言ってしまえば、母を失った悲しみより喪失より、これまでの生活が変わってしまうことへの恐怖の方が大きかった。だって、悲しみはいつか癒えるものだ。もっと言えば、母はいつか「死ぬはず」だった。麦よりも先に、麦よりも早く。想定外に早すぎたけれど、それはいずれくる未来だった。けれど、麦にとって「女子高生」であることを「中断する」のは未知だ。予想しなかったことだ。それに、もっと言えば、「結婚」という予め定められた機会以外でこの家を出ることはもっと。
「どこかへ行くの、麦」
 心臓が飛び出るかと思った。
 見上げれば闇より暗い煮凝りの色をした黒い塊が天井に張り付いていた。毛むくじゃらの八つ足も爛々と光る複眼も見慣れたものなのに、なぜか今日だけはまるで異形のもののように見える。そのときになって初めて、麦は台所の灯りすら点けていないことに気が付いたが、立ち上がって紐を引く気力はとてもない。
「八蘇」
「この家を出るの、麦」
「わ、からない」
「この家を出たいの、麦」
「出たくない。出たいわけない。この家はお母さんとおばあちゃんと暮らした家だし、それに」
 八蘇もいる。
 そうだ、八蘇はどうなってしまうのだろう。羊草家に居着いた土蜘蛛。麦にとっては遠い親族より、疎遠な近隣住人より、余程近しく、親しい存在。彼がこの家から離れることなんて想像も付かなかった。麦にとって、八蘇がいない人生は、結婚して家を出て、「娘」を設けて、夫が亡くなるまでの短い期間のことだけだったはずで、それなのに、彼から離れてしまう。もしかしたら、二度と会えないのかもしれない。そんなの、麦は耐えられるだろうか。否、否。最初から答えは決まっている。
「いい方法があるよ」
 麦の深い絶望を見透かしたように八蘇が言う。甲高い子供の声がねっとりとした湿度と熱を帯びたように感じた。かさかさと天井を這う気配の一瞬後、音もなく羊草家の物の怪は食卓の上に着地した。
 麦からわずか十数センチの至近距離にきらめく複数の目と蠢く口がある。人間とはあまりに違いすぎるその造形からなんらかの感情を読み取ることは、麦にはできない。
「僕とつがいになればいいのさ、麦」
「つ、つがい?」
「そう。僕と麦がつがいになれば、僕たちはずっと一緒にいられる。麦もずっとこの家にいられるよ」
「ほ、んとに?」
「僕が今まで麦に嘘をついたことがあったかな?」
 麦は首を振る。妖怪は意味のない嘘などつかない。人間と違って。
 それなら。
 歓喜と期待が織り混ざった麦に対し、八蘇は笑ったようだった。
 それは初めて麦が捕らえられた彼の感情だったと言っても過言ではない。
 にたり、にたり、と彼は笑っていた。
 土蜘蛛は積年の願望が遂に成就するのこの瞬間を待っていた。何年も、何年も、何世代にも渡って羊草家の女たちに取り憑くことによって、ようやく「彼女に言わせることができる」。
「私、八蘇のつがいになる」

 それから先のことは正直に言ってよくおぼえていない。

 実感したのは身を切るような破瓜の痛み、血の臭いと生臭さが鼻をつく。身体はどんよりと重く、それでいて感覚は研ぎ澄まされていた。まるで人間ではない、別の何かに生まれ変わったみたいに。
 いや、それは間違いなく正しい。
 羊草麦はもうすでに羊草麦としての意志や感情を失っていた。そこにいるのはセーラー服を着た、物の怪だ。
 手の中にあった毛むくじゃらの脚を投げ捨てる。じりじりと身体を動かせば巨大な下半身がずるりずるりと持ち上がった。黄色と黒の縞模様、尖った爪は床を貫き、重たい腹を支える。本来、「彼」の頭があった部分には優美な女の腰があった。まだ幼さを残しながらも充分に艶めかしい曲線は白いリボンのセーラー服を着ている。肩口でゆれる黒髪、長い睫毛、見開かれた瞳は赤を宿す。
『アア』
 それは産声だった。今正に新たに生まれ落ちた化け物の、この世へと放つ最初の悲鳴。
 蟲の姿を模した妖怪の中で、最も恐れられ、最も卑しく、最も美しいとされる、その名は女郎蜘蛛。
 羊草家に取り憑いた土蜘蛛の悲願。それは人間の娘とつがうことによって、滅んだとされるこの古の物の怪を再び帝都に呼び戻すこと。
『アア、』
 彼女は鳴いた。見開かれた瞳がずるりと移動し、己の腹を見る。そこにはすでに無数の命が宿っていた。土蜘蛛の精を受けた何百もの人食いの蜘蛛の子たちが、彼女の中で蠢いている。
 彼らを育まなくては、守らなくては、放たなければ。
 本能とも言える衝動に突き動かされて彼女は行動を開始する。まずは食事だ。人間の、生きた人間の血肉をできるだけ摂取したい。先程喰らった「つがいの身体」だけでは到底足りなかった。
 女郎蜘蛛は廊下に出る。客間の前を過ぎる瞬間、ふとその中を覗いてみたい衝動に駆られたが、それは無視できるほどの些細な情動だった。そこに生きている人間はいない。であれば、彼女にはなんの用もなかった。あるはずもない。
 板張りの床をゆく乾いた足音。それは一人の少女の純然たる死を、羊草の姓を持つ家の終わりを意味していた。


2018.04.15

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