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その他 ソルトゼリーフィッシュと氷の人魚

 とある世界、とある時。北極に程近い冷たい海に一頭の人魚がおりました。
 グレーズのような白銀の髪、ソーダアイスのような薄青の瞳、そしてよく練り込まれた飴のようにきらめく唯一無二の緑青の鱗。美しい人魚は誰もが羨む容姿を持ちながら、北の海でいつもひとりぼっちでした。
 なぜって、それは単純なこと。彼が触れたものはなんでも凍ってしまうから、皆恐れて近寄ることはないのです。
 だから、人魚はいつしか海底の岩礁を城として、一人で過ごすようになりました。ずっとずっと気が遠くなるような長い時間、一人きりでおりました。

***

 北極シャーベット諸島に程近い海域は冷たく強い海流が四方八方から入り乱れ、一般的に「甘い」海水がここでは「ひどく甘い」とされる。
 ほとんどシロップのごとき甘さを持つ海水は氷点下の気温によって瞬く間に凍り、脳髄まで痺れるような極上の氷砂糖を精製する。海面を覆う砂糖の塊は強い波によってお互いにぶつかり合い、砕け、溶けて、そうしてまた海水は甘くなる。そんな営みが何年も何百年も続いた上に、この極北の白亜の世界は成り立っていた。
 曇天は空気を乱し、ときに風を呼び、ときに雷を連れ、叩きつけるような粉砂糖の雪を降らせる。白に白を重ね、破壊と創生を繰り返す陸上は呆れるほど落ち着きがなかったが、反してひとたび海の底へと沈んでしまえば、耳の痛くなるような静寂が待っていた。
 常に水温は零度以下の海である。生き物の姿は少なく、地味な色合いをした魚類と半透明の身体を持つ軟体動物、それにエビやカニなどの甲殻類が密やかに暮らす姿が垣間見える他はない。潮流によって不可思議な模様を描く砂地はどこまでも果てなく続くようで、無数の岩場には成長しきれない海草が流れに根を持っていかれぬよう、必死でしがみついていた。広がる景色は氷の隙間から差し込むわずかな光によって、ゆらゆらと歪んで見える。ただでさえ太陽が力強く顔を出すことの少ない場所だ。水中の世界は果てまで見通せず、すぐそこまでのつもりでも無限の闇へと踏み出すかのような心地がした。陽気にお喋りをするものも、華やかに振る舞うものも、鮮やかな色彩も何もない。ただ、白と黒の淡々とした世界がこの海のすべてだった。
 だからこそ、彼にとってそこは好都合だったのだろう。
 北極の海、静寂の果て。行き着くものさえいない海の底にある岩礁に一人の人魚が暮らしていた。
 グレーズに似た白銀の髪、真夏に振る舞うソーダ味のアイスのような澄んだ水色の瞳、それを縁取る繊細な睫毛、通った鼻筋、そして細工に使われる緑青色の飴のような鱗のきらめきに尾びれの透き通った色合いときたら!
 誰もが垂涎する容姿を持つその雄の人魚は、けれども群れから離れて一人北の海で暮らしていた。歌を歌うことも、海の生き物たちと戯れることも、珊瑚楽器を奏でることも、船乗りを誘惑することもしない。貝のように沈黙し、孤独な生活を続けるのにはわけがある。それは彼の、彼だけが持つ特異体質。即ちその両手で触れたもの、すべからく瞬時に凍りついてしまうがゆえに。彼はひとりぼっちだった。生まれたときからずっと、物心ついたときからずっと。一人で生きてきた。一人で生きていく以外の選択肢などなかった。だって、ただ触れただけで相手を殺してしまう人魚のことなんて、誰が愛してくれようか。
 流れ着いた北の果ての海は人魚に似合いの場所だった。
 生き物の数は極めて少なく、やって来るものも、流れ着くものもほとんどいなかった。氷の人魚は凍ったパリパリの海草を食み、あとは岩礁の影で昼夜問わず密やかに眠り、そうして時折海面を覆う氷砂糖の隙間から顔を覗かせて星を見た。
 珍しく晴れた夜、天にばらまかれた砂糖菓子のように光る星は人魚の心を幾らか慰めてくれた。あの光はずっと遠いところにあるのだと、過去にただ一人、人魚を恐れなかった魔女が教えてくれたことがあった。彼女は不思議な香りのする煙を口から吐き出しながら、こうも言ったものだった。
 あの無数の星のようにこの世界には無数の存在がある。いずれあんたも、あんたの手でも凍らない「何か」に出会うかもね、と。
 しかし、果たしてそんな存在には終ぞ出会うことのないまま、日々は淡々と過ぎていった。人魚の住む北の海に季節の巡りはやって来ず、空は大抵曇っている。時間の感覚は昼夜のそれしかなく、ゆえに人魚はどれほどの時間をここで過ごしているのか正確には把握していなかった。
 人魚の毎日は単調だったが、人魚はその退屈な日常を破壊されることを最も恐れていた。だから、自分の住処である岩礁の周囲のパトロールは欠かさなかったが、ここは最果ての海だ。どれほど目を凝らしても異常があることなんて一度もなかった。そう、今日この日この時までは。
 最初はゴミか何かが引っかかっているのかと思った。自分の思い違いに気付いたのは、間近でそれをじっくりと眺めたときだ。
 クラゲだ。
 半透明な身体は岩礁から突き出た岩に引っかかり、少しの身動きも取れそうもない。ゆらゆらと流れに身を任せるしかない姿は頼りなく、長く垂れ下がった触手も岩肌にばらばらと張り付いているだけだ。青白い身体を持つそれはなんという種なのだろう。一抱えほどもあるが、大きさによる畏怖や圧迫感というものは微塵も感じない。傘のように見える部分に白い模様が浮かぶ以外は特徴的なものもなかった。
 人魚は無遠慮にそれに手を伸ばそうとしてやめた。たとえゼリーのように柔軟な身体を持つクラゲでさえ、人魚が触れれば瞬時に凍りついてしまうことは明らかだったからだ。
「おい、」
 その代わり、人魚は対話を試みた。久しぶりに使った声帯は驚くほど錆び付いていて、泡とともに吐き出される声はまるで自分のものじゃないみたいだった。
「お前はどこから来たんだ?この辺りのクラゲではないな?ここは私の岩礁だ。住処を探しているのなら余所を当たれ」
 クラゲは答えない。口がきけないのかもしれなかった。しかし、言葉が通じようと、意志があろうと、クラゲは人魚の言葉に従うことはできなかっただろう。何しろ自ら泳ぐ力を持たない種だ。どこかへ行こうにもめちゃくちゃな潮の流れが起きるか、人魚自らが手を差し伸べてやるしか、クラゲがこの場所を離れる手段はない。
 人魚にもそのことは重々わかっていた。だが、人魚が手を差し伸べること、それは即ちクラゲの死を意味する。
 ゆえに彼は一つ鼻を鳴らすと身を翻した。放っておくことに決めたのだ。自らの住処に他者が存在することは気にくわないが、かといって無闇に殺してしまうのもまた、人魚の意にそぐわぬことだった。
 人魚は毎日クラゲの様子を見に来た。
 正確に言えばクラゲがどこかへ去って行ったかどうかの確認をしていたのだが、いつもいつもクラゲはそこにいた。だから結果的に人魚はクラゲの様子を窺うだけになっていたのだけれど、毎度覗くだけ覗いては無言のまま立ち去るのもなにやら人魚のプライドが許しがたかったらしい。人魚は毎日ゼリー状の無脊椎動物へ何事か語り掛けることで、体裁を保つことにした。
「まだいるのか」
「潮の流れは変わらんな…」
「泳げぬというのは存外不便な」
「お前のようなクラゲは辺りに見当たらない」
「いつまでそこにいるつもりだ?」
「海上は吹雪だ」
「寒くても平気なのか?」
「極北の潮流に耐えるクラゲとは恐れ入った」
「陸上のものたちはお前たちをゼリーのように食べるのだな。野蛮だ」
「今日は星がよく見える」
 語り掛ける言葉一つ、二つ。当然返事はなく、しばらく尾びれを動かしたのち、人魚は立ち去る。
 そんなことが三日、五日、十日と続いた。
 段々人魚はクラゲの仔細まで目を閉じても瞼の裏に思い浮かべられるようになっていた。声はなく、意志があるかもわからない相手に対して何を馬鹿なといわれるかもしれないが、親愛の情のようなものまでわきあがっていた。それは果たして冷たすぎる孤独の裏返しだったのだろうか。いつの間にか、人魚にとってクラゲの元を訪ねるのは一日の楽しみになっていた。
 そんなある日、北の海に嵐が来た。
 それは空を震わす嵐ではなかった。海流という海流がぐちゃぐちゃに混ざり合い、押し寄せ、引き込み、離れる、海中の嵐だった。
 砂は巻き上がり、視界を奪う。岩礁にしがみついていた藻があえなく押し流され、カニの甲羅ほどある石が凄まじい速さで海底を転がっていくのを見た。否、ひょっとしてあれはカニそのものだっただろうか。
 とにかく、人魚の住む岩礁は幸いにして地中深くに根を張るようにして巨大だったから、嵐の影響を受ける心配はほとんどない。しかし、尾びれの先一つ外に出せる状態ではなく、嵐が過ぎ去るまでは岩礁の奥に隠れてやり過ごすしかないだろう。出て行けば、たとえ海の覇者である人魚だったとしても無傷では済むまい。
 と、はたと思い至る。半透明の、あの見るからに頼りない、引っかかっているだけの軟弱な、話せぬ、聞いているのかもわからぬ、あの弱々しい生き物は、果たして。
 無事だろうか。
 次の瞬間にはもう、先程おぼえたばかりの恐怖や危険はすっかり忘れて、身体は勝手に動いていた。一体何にそんなに突き動かされたのか人魚自身もよくわかっていない。ただ、力の限り尾びれで海底を打ち、つかんだ岩が瞬く間に凍りつくのも気にせず、外へと飛び出す。
 クラゲの元へはすぐだというのに、霞む視界と強い流れのせいでいつもの何倍もの時間がかかった。ああ、けれど、間に合った。それは確かにそこにいる。
 でも。
 運命は非情だ。
 一際荒れ狂う潮の流れに張り付いていた触手がふわりと浮く。
 ぺらぺらの海草のように。
 流れに消えていこうとする半透明。
 ああ、ひょっとしたら「彼」は助かるのかもしれない。
 海の嵐なんて物ともせずにのらりくらりと切り抜けて。
 ああ、でもそうしたらきっと。
 人魚は二度と、「彼」には会えない。
「…!!」
 そう思ったら咄嗟に手が伸びていた。触手の先に指先が触れる。ああ、その先から命の失われていく感覚。冷え切り、凍りつき、驚愕の目でこちらを見つめる愛しい生き物、の姿はそこにはいなかった。
 人魚は目を疑う。しかし、何度疑ってもそれは真実だった。
 荒れ狂う嵐の中、クラゲは流れに巻き込まれそうになりながらも、必死で人魚の腕に絡みついていた。
「お、まえ…」
『ああ、ああ!やっと触れてくださいました!お優しい方、愛しい方、美しい方!』
 その声はまるで腕を伝って直接エラに響くように聞こえる、特別な音だった。それがクラゲの言葉であると人魚は本能的に理解した。
『わたくしはクラゲ、クラゲの中でも特別なクラゲ、あまぁいゼリーのような仲間の中で一匹だけ嘘みたいに塩辛い、だからいつもひとりぼっち、群れから追われ、流れ流れてここまでやって参りました』
 その言葉に人魚はハッとする。その境遇はまるで自分と同じではないか。それに今「塩辛い」と言ったか。この世界における禁忌。即ち甘くない身体を持つ生き物は基本的に存在し得ない。その存在は許されない。世界の均衡を崩すと、世界の歪みを広げるとされているから。だから、人魚も今まで出会ったこともなかった。考えたこともなかった。けれど、それは今目の前にいて、何より人魚が触れても。
「どうして、凍らない」
『わたくしの身体は特別です。塩辛いのは甘いのよりも寒さに強いのです。だから、凍りません。何もかも凍らせるあなたの手は、わたくしにとって心地よい限り』
 そう言って、無数の透明な指先たちは如何にも愛おしように人魚へと絡みついてくるものだから。
 人魚はその柔らかい身体をぐっと引き寄せ、嵐に持っていかれぬよう抱きしめた。慌てたような雰囲気が伝わってくるが、気にすることもない。なぜって、今日は人魚にとって何よりも特別な日になったのだから。何よりも愛おしい日になったのだから。今日という日に嵐は相応しくない。海底をひっくり返すような潮流も、すべてを攪拌しようとするような波も、何もかも。
「凍れ」
 人魚が一声命じれば、海はまるでその声に従うかのように。
 ミシミシと水の軋む音、氷が生まれいずる音、あらゆる流れは海底から屹立した氷柱によって阻まれ、あらゆる波は瞬きの間に氷砂糖へと変貌する。
 これは、と腕の中でクラゲが呻く。そのどこもかしこもなめらかで、柔らかな身体に頬を寄せ、そっと唇を寄せると、人魚はほうと泡を吐いた。
「塩辛い、というのか、これは」
 面食らったと思しきクラゲは内部の発光器官をきらきらと明滅させ、おずおずと、しかししっかりと触手を伸ばす。抱きしめるかのようなその動き、触れたその繊細さに改めて人魚は震えるような胸の温かさを感じていた。
 いつの間にか海の嵐は完全に鎮まり、辺りにはいつもの静寂が満ちている。人魚は終ぞ味わったことのない、穏やかで温かな気持ちを確かめるように、優しくクラゲを胸に抱いた。

***

 こうしてひとりぼっちだった一頭と一匹は北の果ての海で出会い、お互いの隙間を埋めるように寄り添うことにしたのでした。
 北の海にもう嵐はやってきません。
 ただ、よく晴れた夜、空に満天の星が輝く頃。分厚い氷砂糖をかき分け、海底に巨大な岩礁のある辺りまで差し掛かると、なんとも美しい人魚の歌がどこからともなく聞こえてきます。それはなんとも甘く、柔らかで、それでいてちょっぴり胸をときめかすように塩辛い、そんな愛らしい旋律だということです。


2018.04.01

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