ibaraboshi***

home > 小説 > , , , , > 現代帝都 デッドロック・ブラザー・シンドローム

現代帝都 デッドロック・ブラザー・シンドローム

 夏休みは家族みんなで海に行った、という話を同級生から聞かされる度にうらやましくてしょうがなかった。真っ黒に日焼けした肌もぱさぱさに傷んだ髪もまだそこかしこに残っているかのような潮の香りも何もかも、小鳥遊闇月(たかなし くらつき)にとっては遠い異国よりも違う世界の話のように思えた。
 だから、母が海に行くと言い出したときは何かの間違いかと疑った。
 けれど、今度の日曜日、と彼女が続けて言ったとき、それが「本当」なのだという期待と歓喜は闇月の中で一気に膨れ上がった。カレンダーには大きく丸がされ、わずか三日後に迫った運命の日に否が応でも心は踊った。
 そうなるともう新聞についてくるクロスワードパズルもテレビから垂れ流される夏休みの特番も一向に頭に入ってはこなかった。ただ、闇月は母の気が変わらぬよういつも以上に「いい子」でいることに努めた。宿題をこなし、積極的に家事を手伝い、母の機嫌を伺いながら過ごした。
 そして、とうとうやって来たその日。
 「弟」が熱を出した。
 母はこんな日に体調を崩した弟をヒステリックになじり、ついでのように二発三発と平手打ちを浴びせた。かといって彼女は弟を看病をするのでもない。単に自分が作り上げた「家族全員で海へ行く」という予定が覆されたのが、気に入らないだけなのだ。
 母が乱暴な足音をたてて家から出て行ってしまったあと、闇月は氷枕を作り、襖で居間と仕切られただけの寝室へと向かった。
 弟は先天的に体の色素がない、所謂アルビノだった。
 そのためか身体も弱く、しばしば体調を崩し、学校にも満足に通えなかった。そんな弟を母は出来損ないの動物であるかのように見下し、あたかも邪魔者であるかのように扱った。弟は分厚い遮光カーテンがひかれた六畳ばかりの部屋にほぼ軟禁状態だったが、それを異常と認知できる人間は残念ながらこの家の中にはいなかった。
 弟は今までにないくらいの高熱を出していた。
 一切の色のない純白の髪が額に張り付き、荒い呼吸を繰り返す度、どう見ても発育不良の薄い身体が頼りなく上下した。闇月がそっと傍に寄ると、薄闇の中、驚くほど真っ赤な瞳がぱちりと開く。胡乱な視線は中空をさまよい、やがて兄の姿を認めると乾いた唇からうわ言のような声が放たれた。
 ごめんね、おにいちゃん、ごめんね。
 窓越しにも蝉の声がうるさい、八月半ばの幼い記憶。だから、闇月は今も夏が好きになれないのかもしれない。

 肺の奥底まで紫煙を吸い込めば、生理的な涙が眦に浮かんだ。
 季節は春、十日前に開花宣言を受けた帝都の桜は例年以上に暖かい日が続いたせいで、早くも散り際を迎えていた。特段桜の名所でもない住宅街の公園のベンチの上にも薄紅色の花弁はひらひらと降り注ぐ。街灯の青白い光が春宵を背景に浮かび上がらせるその様は幻想的と言えないこともなかったが、鼻の奥を突きさす生臭い匂いが闇月を詩的な夢想に耽らせることを阻んでいた。
 目の前に転がる死体は一体ではない。
 どす黒く変色し、顔面は潰れ、眼球は飛び出し、男とも女ともつかぬ「元は人間だったもの」が総勢十七体。今は無残に腸を引きずり出され、首を刎ねられ、頭部を潰され、明らかに絶命していた。
 公園の白っぽい砂地は存分に血液を吸い、不愉快な沼地のようになっている。誰もそこに足を踏み入れようとは思わないだろう。闇月だってそうだ。如何に自分の仕事の結果とはいえ、死体を弄び、血生臭さを味わう趣味は闇月にはない。だからこうして処理係が現れるまで少し離れたベンチに座って待機しているのだけれど、どうやら「彼」はそうではないらしい。
「…おい、死体を触るな」
「んー」
 生返事を返す、その髪は真っ白だった。もっと言うなら肌も死人のように白く、着込んだ今風のセーターも白なら華奢な太腿を強調するようなジーンズも白、そしてスニーカーすら白いくせに恐れず死体の腸をつまんでしげしげと眺める彼は無論、人間ではない。
 否、元人間だった。更に言うなら、彼は闇月の弟「だった」。
 小鳥遊綾月(たかなし あやつき)。
 小鳥遊闇月と同じ胎に同じ時に宿った双子の片割れはどういうわけか先天性のアルビノとして生まれた。それが不幸の始まりだったわけではないと思う。いや、そうでないと思いたい。だが、残念ながら彼は普通の子供のように愛されず、普通の子供のような教育を受けることはできず、普通の子供のような生活を送ることはできなかった。非力で、誰からも守られず、蔑まれるがままに耐えるしかなかった彼は、結局原因のすべてを「母」とした。憎悪、嫌悪、憤怒、失望。すべての負の感情は渦を巻いて彼の中で人知れず成長した。
 そして、それが毒々しく花開いたとき、弟は死んだ。
 その瞬間の光景は闇月の記憶にべったりとこびりついている。母はすでに肉塊となり、血まみれの弟は息もし辛いほどの血の匂いの中で呆然としているように見えた。しかし、果たしてそのとき「弟」は闇月の知る「弟」だったのだろうか。真紅の目を爛々と光らせ、しとどに血に濡れた掌をじっくりと見つめる、彼は、もう、闇月の知らない「化け物」に成り果てていた。そうとでも思わない限り、闇月の健全な精神は保てなかった。
 否―否、それは弟という存在を自分の中から殺してまで守らなければいけないものだったろうか。
 闇月はいつだって自問自答する。絶対に出口のない問いかけの迷宮に自ら迷い込む。だって、闇月は彼を守れなかった。誰よりも大事だったはずなのに。分かたれた、たった一人の半身だったはずなのに。それなのに、なんで。
「闇月ィ、手汚れた」
 生産性のない物思いを緊張感のない声が打ち破る。視線をあげれば花霞の夜を背に、「悪魔」が爪の中にまで入り込んだ血液を鬱陶しそうにかき出していた。その背にはまるで鮮血で形作ったかのように真っ赤な被膜の翼が、まるで飛行に適さない姿で現れている。実際、それは飛ぶためにあるのではないそうだ。あくまで象徴、わかりやすく人間に畏怖を与えるために彼らはわざわざ異形のパーツを身に備える。
「触るなと言っただろう」
「人間の内臓ってキレイじゃん?触りたくなんない?」
「ならん」
「ええ…闇月、変わってるゥ」
「変わってない。何度も言うが俺はお前と違って悪魔じゃない」
 そう言って携帯灰皿で煙草の火をもみ消せば、するりと生臭い風が頬を撫でた。ベンチの背もたれに危なげなく着地した悪魔は至近距離で闇月の顔を覗き込んでくる。人を狂わす真紅の瞳が違えることなく闇月を見ていた。心の奥底まで見透かされるような錯覚に陥るその視線に心臓の辺りが苦しくなる。やめろ、口を開くな。そう願わずにはいられない闇月の願望をたやすく打ち壊し、彼はあっさりと声を発する。
「なんで?俺たち兄弟なのに。俺が悪魔で、闇月が悪魔でないなんて、そんなのおかしいよ」
「…やめ、ろ」
「ねえ、闇月。俺たち兄弟だろ?母さんの腹から同じ日同じ時間に出て来た。母さんは俺たちを両腕に抱いて幸せそうにしてた。それから俺たちに揃いの名前をくれたんだ。母さんの名前から月の一文字を取って、」
「やめろ!」
 叫び声は切り取られたような公園の夜空に空しく吸い込まれていった。赤い悪魔は目をそらさない。じっとこちらを見つめ、見つめ続け、きっと闇月が泣いて懇願しても許してはくれないだろう。だってこれは闇月の罰だから。弟を助けられなかった、助けようともしなかった兄が背負うべきは贖罪。
「かわいそうなくらつき」
 綾月はもう闇月のことを「お兄ちゃん」とは呼ばない。
 ただ、まだ幼さの残る顔立ちを上辺だけ哀れを装った形に歪め、闇月に手を伸ばす。血まみれの手で若白髪がたっぷり増え、年相応に老けた男の頭を引き寄せ、その胸に抱く。やせっぽちの身体から心臓の拍動は聞こえない。やはり弟は死んでいる。目の前にいるのはただの悪魔だ。弟の姿を借りた異形のもの。けれど、その声も温度も体臭さえも全部全部。
「俺がずっと傍にいてあげる。可哀想で愚かでひとりぼっちな君の傍に」
 それは袋小路の呪いに他ならない。もしくは永遠に治癒しない病なのかもしれない。小鳥遊兄弟が双子として生まれたときから、弟がアルビノとして生まれたときから、兄が兄として生まれたときから罹患し続け、そうしてここまで来てしまった。だから、きっとこれからもそうなのだろう。兄は偽りの兄として、弟は偽りの弟として、行き止まりのその先でお互いに寄り添う他に道はない。
 桜はいつかのあの日のようにはらはらと散り続けている。消えた紫煙に代わり、闇月の鼻腔の奥深くまでを弟の匂いが支配していた。


2018.03.31

新しい記事
古い記事

return to page top