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現代帝都 知らぬ神より馴染みの悪魔

 母が死んだのは京雀王(かなどめ じゃくおう)が七つのときだ。
 生粋の独逸人だった母親は棺に納められてもなお西洋人形のような美しさを損なわず、まるで今にも起き上がってミルクと砂糖の匂いがする手で優しく頭を撫でてくれるかのようだった。爪の形、ひんやりとした掌の温度、刻まれた皺に浮き上がった青い血管。彼女の手にまつわる記憶は多彩だったが、どういうわけか、その顔だけが雀王には明確に思い出せない。
 特に葬儀のときとなると、それはより顕著だった。
 何度思い返しても脳裏に浮かぶのは母が好きだった白百合の花が放つ噎せ返るかのような芳香、五つ年下の弟の始終きょとんとした顔、結局一度も顔を出さなかった父親に対する義憤のようなもの。そして、父に代わって喪主を務めた十も離れた兄の険しい横顔だった。
 その日、名実ともに兄は脈絡と受け継がれる魔術師の家系、京家の大黒柱であり屋台骨となった。その凄惨な重圧たるや如何なるものだっただろう。雀王は未だそれを知らない、理解できない。兄という存在が明確に失われてなお、心のどこかではいずれ彼が戻ってきて、この家を継ぐのだと信じている。
 だって、雀王は平凡なのだ。兄のように才能を覆すほど努力できるわけでもない。弟のように生まれついて天才的な魔術師であるわけでもない。まるで間違いのように兄と弟の狭間に生まれた少年はまだ十七歳を迎えたばかりの、ただの魔術師だった。

 終礼が鳴る。入学式と始業式をつつがなく終えてから早一週間、グラウンドにはちらほらと残る桜の薄紅色を背景に威勢のいい運動部の声が響いている。
 傾いた西日の差し込む教室には雀王以外の人影はない。廊下を過ぎ去る足音も話し声もみな昇降口へと急ぐ生徒のものだけだ。雀王も決して油を売っているわけではないのだが、少なくとも四月中の掃除当番表を作り終えるまでは帰ることができそうもなかった。
 一年のときに軽い気持ちで引き受けたクラス委員が板に付きすぎて、二年でも満場一致で与えられた役割を幸とも不幸とも思っていない。雀王にとって学校生活はあくまで「本業」に専念するための義務であって、決して謳歌するものではない。高等学校ぐらいは出なさい、という滅多に意見しない父の唯一といっていい指示を愚直に守っている。否、守る以外の選択肢など残されていない、という方がより正しい言い方だった。
 生徒四十人分の班分け表を机の端に広げ、クラスに割り振られた掃除場所を外円に、内円に班名を放射状に割り振った当番表はそれなりの時間をかけてようやく完成した。コンパスと定規を駆使してできあがったそれから消しカスを払い、雀王は満足げに頷く。
 こういうのは適当に手を抜けばいいのだろうけれど、雀王にはそれができなかった。何事も要領よくというのが、理性ではなく感情でだめなのだ。もっと言えば躊躇ってしまう。近道を選ぶこと、人よりも優位に立つこと、楽をすること。それらすべてが雀王には何よりも重大な罪のように感じられた。
 なぜか。
 母親に一片も似なかったこの見目のためか。父親に一片も似なかったこの才能のためか。兄が悪魔に「喰われた」ときも、弟が悪魔に「魅入られた」ときも、父が悪魔に「奪われた」ときも、母が悪魔に「連れ去られた」ときも、何もできなかったためか。幾度となく、自分の無力さを痛感させられてきたためか。
 息を吐く。
 一年経ってようやく着慣れた学ランが西日を吸っていた。教室の中はまだ橙色の光によって温められた空気が暑いぐらいだが、春の宵は思いの外駆け足でやって来る。早く戻らなければ住み込みの家政婦がまた心配するだろう。雀王が定時に夕食を食べなければ父になじられるのは彼女なのだ。
 重たい腰をあげようとしたところで、唐突に教室のドアが開いた。教卓とは反対側、背後から聞こえたがらっという重たい音と太陽の角度とは無関係に伸びるセーラー服の黒い影。反射的に振り返った雀王は次の瞬間、眉をひそめた。
 またか。
 そう口をついて出そうなのを耐えた。意味がないからだ。
 それは最早人語を解さない。意志を、感情を持たない。人だった何か。家では影だとか憑き物だとか様々な呼ばれた方をしているのを聞いているが、雀王は「それ」を「それ」としか認識していない。
 即ち、魔術師であり、悪魔召喚師である、自分の敵だ。
「オリヴィエル!」
「はいはいーっと」
 立ち上がったと同時に掌に握り込まれた杖は魔術師の証。鷹の羽、宝玉、星の並びとモチーフは申し分ないが、いずれも雀王の魔術師としての技量を示すものではない。それでも、雀王はこの杖を持って戦うしかない。力強く柄の先で床を叩き、己を鼓舞する。どんな戦いの前であろうと、雀王は怖い。自分が決して物語の主人公でないことを理解しているからだ。
 対して、その呼び声と同時に少年の影から現れた男は実に軽薄な態度だった。人間の様式にあわせているのか黒いスーツを身にまとい、しかれどその背には明らかに異形を示す黒い翼。ふわりと床から一メートルほど浮かび上がったかと思えば、面倒そうに長い足を組む。
「カーッ!これまた雑魚だね大雑魚!ほんとにオレの出る幕あるかい、ジャック?」
 雀王を軽薄なあだ名で呼ぶ男は当然人間ではない。年頃の少年に気安い仲とでも呼べる人間がいたことはこれまで一度もない。
「当たり前だろ!真面目にやってくれ、オリヴィエル!」
「オレはいつでも真面目だっての。はあ…使い魔の心を解さないご主人様はこれだから…」
 わざとらしいため息を打ち壊すように、影の手が伸ばされる。否、それは果たして「手」なのだろうか。
 鞭のようにしなる凶器は難なく机を一つ廃材に変え、弾け飛んだ破片は黒板を破壊する。すぐさま展開した結界のために硝子窓は無事のようだが、敵対者と距離を取りながら雀王は考える、見定める。
 オリヴィエルの言った通り、相手は雑魚だ。魔に魅入られた人間がみっともなく変貌したもの。欲望のままに他者を喰らおうとするもの。厄介なことに、雀王は「彼ら」に殊更狙われやすい体質だ。
『なっんで仮にもソロモン七十二柱に数えられたこともあるこのオレがお前みたいな下級魔術師に呼び出されたと思ってる。お前からはなあ、すこぶるいい匂いがするんだよ。しかも熟せばもっともっと美味くなりそうな匂いだ…ところがお前は雑魚!雑魚ときた!だから、オレがお前が美味くなるまで守ってやる。これは契約だ。悪魔との契約はギブアンドテイク。お前もわかってるだろ、なあ魔術師殿?』
 果たして頷く以外の選択肢が雀王にあっただろうか。
 こうして半ば無理矢理結ばれた契約に基づいてオリヴィエルは雀王に従っている。彼が言う「雀王が美味くなるまで」、雀王は異形の力で守ってもらえるだろう。果たしてそれがいつまでなのかは人間である雀王にはまったく見当もつかないのだけれど。
「狂える花冠、したたかな蔓草、捕縛せよ!」
 術式は正確に発動し、床から発芽した初々しい萌黄色は影を捕らえる。その瞬間を、オリヴィエルは逃さない。背の翼を狭い空間を諸共せず広げ、伸びた爪が狂気のように踊る。
 一閃。
 つんざくような断末魔の悲鳴を残して影は消える。どうやら本体から剥離して移動するタイプだったらしい。余韻が空間に溶けたあと、そこにはその存在を示すものは何一つ残らなかった。きっとどこかで声一つあげず息絶えた死体が見つかるだろうけれど、それは雀王の知ったことではなかった。悪魔に魅入られた時点でただの人間に無事助かる道など存在しない。
「おい」
 ほっと肩の力を抜いたところに不機嫌そうな声をかけられる。わざわざ確認しなくてもわかっているが、それはへそを曲げた使い魔の声だ。
「何」
「何、じゃねぇよ。勝手に喰われそうになってんな」
「ちゃんと撃退した」
「オレが!な!…ったくジャック、お前は危機感を持て。そんなんじゃオレが美味しくいただく前に雑魚どもの腹の中だ」
 悪魔は自分勝手なことをとても優しい声で言う。
 この世界に雀王を「ジャック」と呼ぶのは彼しかいない。雀王を雀王と認識し、理解し、守ろうとする存在は彼しかいない。たとえそれが傲慢な理由であろうとも、己の利益のためであろうとも、ギブアンドテイクを前提とした契約であろうとも。それでも。
「………」
「文句があるならなんか言え……っんだよ、泣くのかよ…」
「泣いて、ないし」
「泣いてんじゃねーか、バーカ!はいはいオレが悪かったっての」
 呆れたような声とともに整った顔が間近に迫る。大きな掌に頭を撫でられたかと思えば、美しい銀色の瞳と目が合った。次の瞬間にはもう、唇を奪われる。常に空中を浮遊する悪魔からの味見と称したキスはいつも頼りなく、不安定で、雀王は夢とも現ともつかない狭間に一人取り残される気分になる。まるで、自分が人間じゃなくなったみたいに。
「帰るぞ、ジャック」
「…うん」
 ぼんやりすんな、という台詞を残して悪魔は姿を消した。否、それでも雀王の傍にはいるのだろう。気配だけが残り香のように漂い、それは彼の契約の主である少年には銀色の星雲のように見えた。
 窓から差し込む日差しはすっかり溶け、外にはぬるま湯のような春の闇が広がりつつある。
 雀王はかぶりを振る。魔術を使用したことによる高揚感と唇をかすめた人外の感触はあっという間に消え去り、そこにはもうただの平凡な少年がいるばかりだ。


2018.03.24

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