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現代帝都 コキュートスで朝食を

 毎朝、まるで生まれ変わったかのような気持ちで目が覚める。
 ベッドから起き上がるとまず掌を見下ろすのは最早習慣だった。小さな爪、柔らかで白い皮膚、何一つ傷付けることのできない無力な手。白銀の髪は生まれたての氷のように透き通り、腰の辺りでさわさわと揺れる。瞳の色は天の青より薄く繊細で、やはり抱くのは氷の印象だった。華奢な手足、幼稚さを助長するレースのネグリジェ。鉄壁の少女性を補強するそれらのパーツに反して、その表情は凪の日のしじまのように静かで、不自然なほどに大人びていた。
 「少女」は欠伸を噛み殺す。
 高い天井の個室には天蓋の付いたベッド、樫の木でできた書き物机にキャビネット、ドレッサー、それからクローゼットに続く扉。備え付けの調度品が放つ雰囲気は彼女にまったく釣り合っていない。それらは総じて巨大で、豪奢で、重厚だった。白銀の髪は景色の中に埋もれてしまうことはなく、また調和することも、おそらく今後一切ないだろう。
 衣擦れの音をたててベッドから出る。裸足は毛の長い絨毯の中に思うままに沈み、足を取られそうなほどだ。一歩、二歩、三歩、四歩。いつも通りの歩幅で、いつも通りの歩数を進み、クローゼットの取っ手に手をかける。両開きのドアを開けば、中にはぎっしりと少女然とした衣装が詰まっている。
 彼女はそれほど苦心するでもなく、その中から今日の気分に最適な服を選び取ると、羽化する蝶のように素早く着込んだ。黄色いマーガレットが全面に配されたワンピースに生成り色のソックスは、なるほど今まさに春を迎えんとする今日この日に相応しい装いだ。
 仕上げにヘアブラシで長い髪をさっと梳くと、飴色の革靴に可憐な足先を差し込む。低い踵の音は絨毯に吸い込まれ、微塵も高らかに響かないが、彼女は気にしない。足取りも軽やかにクローゼットとは異なるドアを開いた。
 ドアの先はキッチンだった。
 いや、もっと正確に記すのならば、彼女が「そう」した。
 この屋敷の内部空間は時空がねじれている。意図的ではなく不可抗力なのだが、残念ながらこの場所においては通常の空間を維持しておく方が厄介で面倒だろう。よって、彼女をはじめとした住人たちは正常さを維持することも、修復することもとっくに諦めて、自分に都合よく便利に使うことにしていた。
 他ならぬ少女にとってもドアを開く瞬間に自分の向かいたい場所を思い描き、ドアという物理的境界線を空間超越魔術の媒介にすることなど造作もない。
 キッチンには正しくキッチンの空気が満ちていた。
 まず耳に飛び込んでくるのはじゅうじゅうと鉄製のフライパンで何かが焼ける音。鼻先をくすぐるのは食欲をそそる香ばしい匂い。自室と異なり、デッキブラシで磨かれた木板の床を待ってましたとばかりにヒールが高らかに鳴らす。その足音に気が付いたのだろう。キッチンに立つ人物がふらりと振り返った。
「おはよう、ルシフェル」
 少女は言う。なんでもないように。
 薄緑色のタイルが張られたシンク、音をたてる換気扇、水気一つないぶら下がったキッチンツール。清潔な布巾、籠に入った卵、水に放たれたレタスにトマト、焼き立てのパン。そういったものに囲まれて立つ美丈夫は輝かしいブロンドの髪を素っ気ない紐で一つにまとめ、あまりにも自然にエプロンを締め、そうしてどこまでも青い瞳をゆっくりと瞬かせるとこちらを見た。
「今日の朝食は何かしら?」
「ベーコンエッグにイングリッシュマフィン、グリーンサラダにヨーグルト、コーヒー」
「素敵だわ。何か手伝うことはある?」
 少女の言葉に青年は緩やかに首を振った。そんな仕草まで神々しい後光が差しているように見える。儚くも、華やかで、気品あふれるその姿は正に光輝なる者の名に相応しい。
「ありがとう。座って待っているといい」
 わずかな笑みをとともに柔らかく頭を撫でられる。子供にやるようなことは基本的に少女は好まないけれど、彼の手であれば特別だ。否、彼女にとってだけでなく、この屋敷に住まう者すべてにとって、あるいは闇に潜む者すべてにとって、彼は特別な存在であることに違いない。
 キッチンを離れ、ダイニングテーブルへと歩み寄ると、八人掛けの巨大な食卓にはすでに朝食の用意が整いつつあった。
 センターには麻に刺繍を施したテーブルクロス、カトラリー入れ、塩胡椒にマスタードやジャムの小瓶。ガラス製の花瓶に生けられているのはボリジだろうか。
 繊細な青紫の花弁に触れていると、そこに「先客」が現れる。
 まるで椅子の方が小さすぎるのではないかと錯覚をおぼえる立派な体躯。広い肩幅に浅黒い肌は熊か、すでに滅んだという巨大な爬虫類を思わせた。燃え尽きた灰のような色をした髪は短く刈り込まれ、反して石炭のように真っ赤な瞳が印象的だ。
「サタン、おはよう」
「…ん」
 素っ気ない返事はいつものこと。気分を害することもなく、少女は彼の真正面に腰かけた。そこが定位置なのだ。
 することもないので、常と変わらず精悍な男の顔を真正面から見つめていたら、相手は居心地が悪そうに視線をそらした。なんとなくつられて、赤がスライドしていった方向を追いかけると、オールドグリーンの革張りのソファが一台。常に季節の刺繍を施したクッションやブランケットによって気持ちよく整えられているそこに今朝はそぐわぬ二体の死体がある。
「ベルフェゴール、マンモン」
「……お、おお…その声…」
「……ひょっとして、もう…朝…?」
「ひょっとしなくても朝よ」
 少女の声に呻いたのは暗緑色の髪をした男。眩しそうに開いた瞳の色は金。黄金色の装飾品をこれでもかと身に着けた彼はソファで眠ったせいで凝り固まった身体をどうにか稼働させようと恐々と蠢く。べろんと伸びているのは爬虫類の尾。強靭な鱗に覆われたそれは彼の本性が欲深きドラゴンである証だ。
 一方、その隣でソファに沈んでいたのは翼の生えた巨大な目玉、とその上に突っ伏して眠っていた少年だ。麗しのハニーブロンドに緑眼を持つ彼は、男女問わず振り返るであろう瑞々しい少年の姿を台無しにする盛大なくまをこしらえて、臆面なく大欠伸をした。
「ねっむい」
「また二人でチェスをしていたの?」
「マンモンが勝つまでやるっていうから」
「お前が強すぎるのが悪いんだろ…ふざけんな、ベルベル」
「ベルベルゆうな」
「相変わらず仲良しね」
「「仲良くない!」」
 台詞とは裏腹の様子に少女が呆れて肩を竦めると、中庭に向かって取り付けられたドアがばたりと開く。入り込んできたのは早春の冷ややかで澄んだ空気、鼻腔の奥をささやかに叩く花の香り、そして、豊満な肉体を大胆にさらした一人の女。
 煤けた金髪に褐色の瞳、そして堂々たる髑髏のタトゥをむき出しの両太ももに刻み込んだ彼女はダイニングとリビング、それからキッチンの様子を瞬時に把握し、二カッと笑うと肺の奥底から吐き出す呼気とともにおはよう!と叫んだ。
「おはよう、ベルゼブル。今日も元気ね」
「アタシが元気じゃない日があったら、教えてほしいくらいだねェ」
「ブル姐さん…大声やめ…」
「徹夜明けに響く…」
「なっさけないね。アンタらそれでも悪魔かい?」
「関係なくねえ…?」
「…同感…」
 やはり同時に呟いた二人を尻目に女は抱えたボウルを手にキッチンへと去っていく。どうやら庭のハーブを摘んでいたらしい。ミントティーだろうか、それとも厚切りベーコンに一枝のローズマリー?どちらにしろ少女の好物には変わりない。
 ああ、早く朝食にならないかしら、と年甲斐もなくはしゃぐ心を自制する。
 そう、冷静になって考えてみるとまだ一人足らないではないか。これでは朝食が始まらない。この屋敷の、この共同生活のたった一つのシンプルなルール。「朝食は必ず揃って七人で」は絶対に遵守されなければならないのだから。
「遅くなりました!朝ご飯まだ大丈夫ですか!?」
 そこに、けたたましくドアが開かれる音とともに慌てた声が轟く。振り返ればそこにはどことも知れぬ廊下を背に一人の女が立っていた。肩口で揃えた漆黒の髪に薔薇水晶の瞳。小柄だが清冽な美を湛えた美しい彼女はダイニングテーブルに座った少女に気が付くと、片手の紙袋を抱え直すのも忘れてぱっと顔を輝かせた。
「お師匠様!おはようございます!」
「おはよう、アスモデウス。もう、お師匠様はやめてって言ったでしょう?」
 私たちは同胞よ、と言葉を重ねれば、彼女が一瞬はっとした表情をする。そうして、一拍置いてから照れたように口元を緩めた。
「はい。そうでしたね、レヴィアタン」
 ああ、今日も黄金色の朝がやって来る。幾千、幾万の夜の果てに、再び白い世界に辿り着いた七人の同志。罪を担うもの、咎を負うもの、光あるところには必ず影があり、だからこそ我らは。
「朝食の時間だよ」
 今日も今日とてまるで人間のように、当たり前に食卓を囲むのだ。


2018.03.18

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