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蜜色の月酔い

 遠くから楽の音が聞こえてくる。高らかに弦を爪弾くのは宮廷にお抱えの一級の楽師たちであろう。性能の良い鼻と耳にはよく届く。宮廷人たちの笑い声と杯を打ち鳴らす音、豪勢な食事、芳醇な酒。席を賑わすのは美しく着飾った女たち。紅も白粉もこれでもかというぐらいに塗りたくって、髪に花を彩った彼女たちはけれど。どんなに身を飾ったとしても、つい先程、密やかに宴の席を抜け出してきた《彼女》の美貌に優れることはないだろう。純銀のまるで星空を集めたかのような長い髪。白磁の肌に瞳の色は時折鈍く輝く、不思議な灰銀の色をしていた。纏った衣装は綾織に金錦。どの女よりも金銀を費やしていると解る装飾品は遠方の翡翠や水晶を惜しげもなく使っていた。憂いを含んだ眼差しは何処までも透き通り、落とす吐息さえも芸術の域。彼女は宮廷の庭を一望出来る釣殿に、しとやかに寄りかかった。眼前に広がる池には夜空へと輝く十六夜の月が浮かぶ。決して人の手には望めぬものが。
 指先で水面に触れた瞬間、月は揺らいで消えてしまう。
 人の世も似たようなものだ。移ろい易く、崩れ易い。気がつけば人は皆、己の意思すらも揺らぎ、容易く瓦解という名の悦楽へと落ちていく。彼女はもう何度も、人々が理性と平穏を自ら失っていく様を見ていた。正直、見飽きてしまったと言っても良いかもしれない。栄華など呆気ない。幾ら名君と謳われようと財に溺れ、女の色香に惑ってしまえば、最早それまでだ。人民を省みず、国の荒廃を見捨て、あっさりと己の快楽へと走っていく王はこれで四人目。嗚呼、莫迦らしい。
 王にはもう民の嘆きなど届かないのだろうか。女の耳にさえも届くほどに強い怨嗟の念が解らぬとでもいうのだろうか。
 今、鮮やかなる十六夜の月に照らされて、腐臭のする裏路地で死んでゆく子供が一人、二人。貧民の生まれなのだろう。身形もみすぼらしく、寄り添う母子がいて、その近くでは痩せた野良犬が涎を垂らしている。鼠さえも歯を伸ばして死んでいる。今年は凶作だった。北方に位置する壽の国はこのままでは冬を越えられないだろう。何千何万と人が死に、恨みは王へと向けられて、やがては自滅の道を歩む。容易く想像出来る未来が、あの男と臣下には、解らないのだ。吹き付ける風が徐々に冷たくなってきている。秋は深まり、壽に訪れる早い冬が、間近に近づいていた。

「おお、阿玉。此処におったか」

 《女の名》を呼ぶ声に振り替える。見ればほろ酔いとなった屈強なる壮年の男が、臣下も連れずに一人歩み寄ってきていた。彼女は吐息を吐く。機嫌が良いのは結構だが、その紅の匂いと酒臭い息のまま、背後に立っては欲しくなかった。折角、下卑た宴の匂いから逃れてきたというのに。鉄錆以上に、この男の匂いは女の癪に障る。否、この男に限ることはない。地位を得た人間というのは、総じて同じような匂いがしたものだ。《君主》というものは。基本的に女の気に入るところではない。少なくとも女の出会った王には、碌なものがいなかったと断言できよう。そして、例に漏れずこの男も無遠慮に女の隣に並ぶと、気安く肩を抱いた。臭い。酒の匂いが、酷く鼻をつく。

「宴には飽いてしまったか。それともあのような席は相変わらず好かぬか?」
「…いいえ。陛下がわたくしの為に催して下さった宴、何ぞ好ましくないことがありましょうか」
「はは、其方は本に愛いことを言う」

 女の言葉を真に受けた王は益々気を良くして女に寄り添う。女は、それを拒まぬような素振りを見せながら、内心息を吐いた。茶番にもそろそろ飽きてきたのだ。永劫続く宴と費えることなき豪奢に興を感じて、宮廷に入り込んだは良いものの、如何せん《贅沢》は退屈だ。煌く玉も見続ければ道端の石ころと何ら変わりない。高価な異国の香もともすれば下品で、奏でられる楽も毎夜聞いていれば虫の音や鳥の声の方が心地良く思えてくる。最初は興味とほんの少しの復讐のつもりだった。遙か昔、人に痛めつけられた傷を少しでも慰めようと、四の王国の宮廷へと入り込み、その美貌で全ての王を誑かした。女の策は見事に的中し、全ての国は混乱と崩落の一途を辿ったが、あまりにも女の思うままに惑い、乱れる国の中枢に、すでに女は憂鬱すら感じていた。肩を抱く男の酒の匂いが余計に女の暗い気分を煽るのも、そのせいだ。

「お前の為ならばどんな玉すら惜しくはない…どうだ、何か望むものはあるか?」

 懲りずに問う男に女は一瞬、悩む振りをした。そう言って男の差し出してきたものの大半を、女は切り裂いて、または打ち砕き、この池に沈めている。男は気付きもしないだろう。国庫を切り崩してまで得た宝の数々がそんな悲惨な眼にあっているとは。女にとって《美しい物》は好ましいもの。だが、この男はどういうわけか殊更感性が悪いのか、高価であろうと興を削がれるものばかりを、送ってくる。特に以前男が女に送った南方の品だという香炉。全くの紛いものだった。しかし、だからと言って男に反抗するようなことは言わず、何時も大人しく適当に男の気が済む程度の宝を所望してきたが、今になってまでそんな気遣いは無用だろうと、女は緩やかに笑みを刻んで見せた。月下に輝く、能面の微笑。あまりにも愚かに見惚れる男に、女はすいっと視線を動かすと、細い指先で夜空を指差した。濃紺の空に浮かぶのは十六夜。

「あの月ぞ。欲しゅう御座います、陛下」
「…月とな?ほう、今宵の阿玉はちと趣向を変えてきたの」

 冗談と笑う男に女も密やかに笑んでみせる。たとえ人がどんなに得ようと思っても、得られぬは夜空の月と水面の月。手を伸ばせばそれは幻のように消え失せ、確かなことなどまるでない。何と人の世の儚さよ。最早、女がこの場所でこの国でこの世で、行うことなど何一つなかった。まるで最初からそうであったかのように。

 人の世に獣の夢など無意味だ。

 ぐしゅ、と何かが肉を突き破る音がした。驚愕の表情すら浮かべる間もなかった男が、顎を揺らし、崩れ落ちる。どうっと。磨かれた釣殿の床に落ちた男の高価な衣を真紅の血液が染めていく。白目を向いた男の死に様を、冷かかに女は見下ろした。血で汚れた己の右腕を払う。鼻を強く打つ鉄錆の匂いが不快で、眉根を美しく顰めてみせた。

「―これを、」

 呼ぶまでもない。一人の侍女が何時の間にか女の後ろに控えて、清潔な布を差し出していた。翡翠色の髪に美麗な声音。女には優らずとも、並以上の美貌を有した彼女から素直に布を受け取ると、女は指先を清めた。空には十六夜。水面にも相変わらずぽっかりと月が浮かんでいた。だが、すでに女はこの場にいる理由の一つも保持していなかった。何度も心地の悪い香を嗅いだのみで、栄華にも贅にも殊更飽きてしまった女は、重たい打掛けを脱ぐと死んだ男に被せる。手向けのつもりなどではない。ただ単純に派手な色彩の衣装が、女の好みには合っていないだけの話だ。

「…誠に茶番も過ぎたか。この男は趣味が悪すぎたの」
「全くで御座います。どれも貴方様の御気に召されるようなものでは御座いませんでした」
「豪奢も風雅も知れたこと。人の手では決して届かぬ宵の月、か」

 女は両手を振り上げ、身を震わせる。それは一瞬の変貌だった。次に釣殿に存在していたのは、絶世の美女などではない。純銀の毛皮に未だ少々の血で濡れた前足を縁に乗せ、真紅の瞳、額にはその妖力の高さを示す赤き紋様。そして、ぶわりと風を巻き起こすのは九本の尾。妖の狐として最高の権威を誇る九尾の大妖は、その瞳を天高く向けた。獣として生れ落ちてから早幾千年。人に仇なす妖として世に蔓延るのにも、いい加減潮時を迎えたようだった。

「行くえ、藍春。最早、人の世に用はなきに」
「はい」

 大狐は力強く足を踏み出すと、その四肢で容易く中空を駆けた。足が空を踏みしめる度に、風が靡き、純銀が煌く。遙か天空へと。四の王国を乱しに乱した稀代の大妖は、その最後を己でさっさと決定すると、呆気なく空へと昇っていった。悪事の最後を壽の国の悪政君主殺害として。後の世に「宮中惑乱」と呼び習わされた妖による人の世への厄。それは妖災厄の中でも極めて珍しく、妖自らの意志によって引き起こされ、そして終結した。
 秋も深まる夜に人々は、星空へと昇っていく一匹の狐と、それに付き従う一羽の三光鳥の姿をはっきりと見たのだという。





 眼が覚めた。





 一滴の日の光も差さぬ真夜中。暗闇でも利く夜目を薄っすらと開いて灼銀は僅かに身じろいだ。何か古い夢を見ていた。懐かしいようで、特に忘れてしまっても問題のない、遙か昔の物語だ。
 あの夜を境に純銀の大狐は三世より姿を消し、空へと昇った。悪行を悔い改め、これよりは玉帝黄龍老君の下に並ぶ、神仙として生きる許可を受けるためである。しかし、まあ、本当のところは灼銀にはかの龍王に忠誠を尽くすつもりは、毛頭なかったのだけれども。そして、あの大地と天空とを統括する龍も灼銀の思惑を見抜いていた節があるのだけれども。だが、かの龍も三世の世を荒らし回されるよりは、たとえ本心でなくとも改心すると九尾が言ったことの方が重要だと、考えたのだろう。幾千年を血濡れて過ごした大狐を清めさせ、やがて現れた袁王という妖の討伐を命じた。無論、灼銀は見事にそれをやってのけて、その功として幽蕾山霞晶洞を賜り、銀紗羅真君の尊名をも名乗ることを許された。
 無事に神仙と成った灼銀は何をするでもなく、平穏な日々を過ごした。幽蕾山を整えることや、女仙たちの指導には、手を抜くことなく忙しかったが、それでも人の世で常に権力という名の殺意に晒されていた毎日からは雲泥の差だった。各王国から拝借した財宝は宝物庫にて管理し、あらゆる場所から集めた書物の管理を虫たちに任せつつ、時に玉帝の命に応えて人の世を荒らす妖の討伐に出向いたり、馴染みの神仙の下へと出向いたり。何が起こるというわけでもない。神仙として穏やかな日常はそれなりに灼銀を満たしたが、それまでだった。進んで壊そうというほどでもないが飽くことには変わりない生。何千年も生きた大狐を真に満たすものは何一つなかった。遙かなる蒼穹も美しい草花も山を潤す銀水も何もかもが、ただ、そうあるだけだと。そう、思っていた。

 ある銀色の雨の日に、《彼》と出会うまでは。

 あの日、斉の国を気晴らしに舞っていた灼銀が綺麗に整えられた小さな白牡丹の庭を見つけたのはほんの偶然だった。以前から灼銀が殊の外好いていた牡丹が斉の国ではよく咲き誇ることは知っていたし、紅色はよく見かけたものだったが、此処まで白にこだわり抜いて整えた庭にはお眼にかかったことはなかったのだ。霧雨が心地良く身を濡らす中を、灼銀は気まぐれで庭へと降りた。鼻先をくすぐる牡丹の香に、己は草木精ではないのだがな、と苦笑しながらも、かの麗しき大華の満開を祝してやるのも悪くないと思い、中空を踊った。舞で記すのは花を祝う仙術の式の一つ。土行に属し、元は狐である灼銀がこのような式を扱ったところで大した奇跡が起こるわけでもないのだけれど。単純に心地良い香の中で四肢を動かすのは楽しかった。まだ、灼銀に自我という名の妖の芽が芽生える前のように。大勢いた兄弟たちと母と戯れるように土と草の匂いの中で、飛び回ったことを大狐はしばらくぶりに思い出した。
 しかし、そんな物思いも砂利を踏み鳴らす音でふと我に返る。動きを止めた灼銀は本能のように、音のした方を見遣った。其処には立ち尽くす一人の男。雨の中、蛇の目傘も差さずにどうしたというのだろうか。紅鳶色の髪に蜜色の瞳。大層整った顔立ちは驚愕に彩られ、灼銀が見定めた瞬間にばつが悪そうに僅かに視線を逸らし、翻って走り出してしまった。

 本当は、その瞬間に何かを感じたわけではない。

 ただ、少しだけ退屈凌ぎが出来るかと。空の上の日常に飽いていた狐のささやかな欲を満たしてくれるのではないかと。久方に化け術を使って彼の傍へと近寄るのは酷く易いことだった。何しろ見定めたかの屋敷は妓楼。美しい女ならば商売道具として誰彼構わず受け入れるのが道理。本当はそのような小技を使わずとも、直接、夜半に忍んで行っても良かったのだけれど。何しろ退屈を極めていた故に。趣向を凝らして近づいてみただけのこと。嗚呼、けれどもしかしたらそれは間違っていたかもしれない。何しろ。何しろ近づき、目を合わせ、言の葉を交わした彼は。それはもう、たとえ灼銀の瞳が腐っていようと何と言われようと何であろうと、美しく愛らしく、聡明で可愛らしく。幾千年を生き、百戦錬磨の色事を繰り返してきたはずの大狐は、一瞬で、恋に落ちてしまったのだから。

「………、しゃく、ぎん…?」

 眠気を含んだ覚束ない声が呼ぶ。視線を下ろせば、麻の薄布に包まっただけの愛しい伴侶は僅かに震えてみせた。初夏とは言え夜のうちはまだ肌寒い。九本の尾を繰って、包み込むように覆ってやれば、彼は眼を瞑ったまま相好を崩した。紅鳶色の柔らかい髪が乱れる。灼銀の身体にぴたりとくっ付くように擦り寄ってくる様子が幼子のようで可愛らしい。嗚呼、もう。かの人の全てが身の内にあるという事実だけで、灼銀は跳ね回りたくなるほどに嬉しいのだ。髪も瞳も肌も爪の先まで、他でもない、彼は灼銀のものだ。契りを交わしたあの夜から、狂おしいほどに囚われている。普段の穏やかな様も少しだけ照れたように笑う様も機嫌が悪いとすぐに視線を逸らす様も閨の中で乱れ咲く様も。何もかもが彼は美しい。そして、その表情の多くが己の手によって引き起こされていることが、灼銀は嬉しくて仕方がない。美しい人。清廉でありながら、獣の己と身を繋げることを拒まなかった彼を心の底から愛しく思う。

「天羽、」

 とろとろと深い眠りに落ちようとしている彼に声を投げる。濡れた蜜色の瞳が見たいだけの灼銀の我侭なのだが、彼は素直に反応して薄っすらと瞼を持ち上げる。透き通った琥珀の甘い瞳。眠たげに薄く口を開いた様は色香漂い、可愛らしいことこの上ない。ぼんやりとした暗闇でも、彼には灼銀の機嫌が良いことが解ったのだろう。どうしたんだ、と言わんばかりに微笑むと僅かに小首を傾げてみせる。嗚呼、可愛い。紅鳶色の髪が己の純銀の毛皮に、紛れているのも堪らなく愛しくて、灼銀はそっと彼の耳元に口先を寄せた。ひげが頬に触れたのか、くすぐったそうに彼が笑う。そのきゅうっと眦が下がり、唇が引き結ばれる彼の笑みが、灼銀は好きだ。この世で最も愛らしい笑顔だと思う。おまけに次にふわりと瞼が開かれて、長い睫毛に縁取られた蜜の色をした瞳が灼銀を覗く様と言ったら。嗚呼、もう愛らしくて美しい。感極まった声は心の中でのみそっと呟くだけにして、彼がよく褒め称える美しい声で静かに囁く。


「後朝に 鴉射殺せ 梓弓 蜜なる月ぞ 寄らば抱かん」


 それは、恋の歌。
 しかし、純粋に身の幸福を歌うというには物騒な恋歌に彼は一瞬で頬を染め、次いで苦笑した。射殺せはないだろう、と言いながらも、擦り寄るばかりの獣の口付けを受け取ってくれる。舌を忍び込ませれば。震える身体をきつく抱いて。甘ったるい口内の全てを貪るように蹂躙する。口蓋をなぞれば、素直すぎる身体はびくりと跳ねた。ずり落ちた掛け布から夜目にも鮮やかな素肌が顕わになる。しなやかな身体には灼銀が彼を愛した痕が色濃く刻まれ、それが尚一層情欲を煽った。何度繋がっても飽くことなどない。金銀財宝とは違う至高の美に灼銀は幾度も酔う。溺れるがままに溺れ、揺らめくがままに揺らめいて。嗚呼、抱ける宝の何と愛しく狂おしいことか。彼は灼銀の月だ。蜜色の、月。愛し、と何度も呟く獣に彼は微笑んで応えてくれる。灼銀、と甘ったるい瞳をこれ以上にないほどに濡れさせて。

「俺もだから」

 そうして、この世で最も幸福な獣はこの世で最も愛しい伴侶と朝まで共に過ごす。本当に梓の弓が鴉を射殺しはしないだろうかと呟いては、彼が心地良く笑う声を聞きながら。


06/06/18

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