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蒼天に妖の唄

 神仙は基本的に殺生御法度。当然のことながら、己が口にするものでも生き物を殺してはならぬということになっている。しかしわざわざ定められずとも、仙となれば誰もが生臭を口に入れるのを自然と躊躇うものらしい。天羽は以前は好物だった岩魚が清流を泳ぐ姿を見てもそれを食べ物と認識することが難しくなった。当然かつ緩やかに変化は訪れる。昇仙したという自覚は未だにあまりないが、天羽は着実に現し世から神々の世界へと身を移している。
 こうして食事を摂るという行為自体は以前と変わらぬのに不思議なことだなと感慨深く思いながら見遣れば、漆塗りの膳に並ぶのは初夏の彩り。爽やかな香りを放つ紫蘇飯、揚げた豆腐にあんをかけて山葵を乗せた包み揚げ、大根の三ツ輪漬けにしらが芋とえのき茸のすまし仕立て。品揃えも味付けも申し分なく、妓楼で舌の肥えた天羽をも充分満足させるものだ。膳を運んできてくれる女仙にそう告げれば、彼女は頬を紅潮させて、そのように賄い場の皆に言伝致しますと意気込んで走り去った。当然、着物の裾もたくし上げることなく引き摺ったままだったが、異様なまでの素早さだった。脱兎も斯くの如きまでは。呆然と彼女の後姿を見送っていた天羽に、ちょうど食事の終わりを見計らってやって来た落ち着いた雰囲気の女仙が笑って言った。袂で口元を隠す様子さえ優雅な彼女の声は鈴の音。

『羽天様、明日より尚のこと膳が豪勢になりましょうよ』

 しかし、実際に変わったことといえば、天羽が宮中をうろうろしていると彼女らが気軽に声をかけてくるようになったことだ。今までは天羽という存在が物慣れぬようで遠巻きに放って置かれた感じだったのだが、今ではそんなこともない。そもそも霞晶洞の気風として女仙と主である灼銀が近しい関係を築いていたこともあり、かの狐の妻として昇仙した天羽も万を時して存分に歓迎されたというところだろうか。端女(はしため)なる位の低い女仙たちが取り仕切る賄い場でも、訪れればさんざしやら月餅やら色々と土産を持たされる。それは天羽は甘いものが好きだけれども、一体どこからそのことがわかったのだろう。いつも食事のあとの甘味を大人しく待っているのが悪かったのだろうか。

「羽天様、失礼致します」

 徒然考えながらも箸を動かしていた天羽がちょうどそれを陶器の短冊に戻す頃、見計らったかのように障子戸が開いた。見遣れば件の鈴の声の持ち主である藍春(らんしゅん)と盆を持ったあどけなさ残る女仙が静々と入ってくる。
 藍春は天羽の前にゆったりと裾を捌いて座ると、深々と一礼した。相変わらずその動きには卒がなく、見惚れるほどに優雅だ。髪に携えた簪がちりんと鳴る。純銀に菱数珠。
 一方、もう一人の女仙は日頃包丁を握り、襷上げで調理に従事しているためか、礼儀作法も覚束ない。彼女はぎこちなく藍春に習って一礼すると、空になった御膳をてきぱきと片付け、代わりに高槻を置いてもう一度礼をする。今日の甘味は豆腐を寒天で冷やし固め、黒蜜をかけたもの。

「玲瓏とうふに御座います。羽天様の御口に合えば宜しゅう御座います」
「有難う。今日も美味しかった」

 そう本心を告げれば、彼女は顔を輝かせて深々と一礼した。退出したあとに障子戸を閉めた向こうから聞こえる軽やかな足音。それを心地よく感じながら、天羽は箸を取ると冷たい寒天と豆腐に口を付けた。美味だ。徐々に汗ばむ季節には冷たいものに限る。淀みのない箸の動きで綺麗に甘味を片付けていく天羽に藍春の朗らかな笑い声が届く。顔を上げれば、彼女の緩んだ目許だけが目に入り、そんなに夢中になって食べていただろうかと今更ばつが悪くなった。

「羽天様はほんに美味しそうに頂かれますね」
「………普通だと思うが」
「いいえ。羽天様がそのような御方だから、賄い場の者らも嬉しゅうて楽しゅうて仕方がないので御座います。これが銀紗羅様ともなれば、やれ味付けが濃いだの、柚子を利かせだの、御膳の品目が少ないだの、喧しゅうていけないので御座います。御方(おんかた)は口福を追求するに余念がないので御座いますれば」

 そう言ってころろと笑う藍春に悪びれた様子は全くない。日頃からの女仙とその主人の気安さを感じさせる言葉に天羽は苦笑すると、最後の寒天の欠片を口に放り込んだ。甘い黒蜜が心地良く喉を潤し、馳走になったと箸を置く。藍春が結構で御座いますという言葉と共に笑いを収め、してどうなされますかと問うた。
 天羽の日常は大体において規則正しい。日が昇りきった頃に起き、軽い朝餉を摂ったあとに書庫に赴いたりしつつ読書を嗜み、昼餉のあとは広い幽蕾山の中を散策し、また書の中へと戻る。灼銀がいれば彼と取りとめのない話をしたりもするのだが、今日は出かける予定だと昨日のうちから聞いていた。

「散策に行って来る」
「承知致しました。あまり遠くまで行かれぬよう」
「平気だ。迷子になるようなところまでは行かない」
「そうなされませ。山は聖域で御座いますが、用心に越したことは御座いません」

 心配性の女仙に微笑だけを返し、天羽は席を立つ。藍春もまるで風を感じさせない動きで立ち上がると、天羽の行く手を妨げぬように障子戸を開け、ついでに履物も取り出してくれた。
 今日も幽蕾山は心地良い蒼穹の下にある。風が吹く度に新緑の匂いが濃くなっていくようだった。草履に足を通し、砂利を踏む。敷かれた花崗岩の小道に足を踏み出しながら、数刻で戻るからと告げれば、彼女は深々と礼をした。

***

 白い花の香が風に乗り、天羽の鼻先を掠めた。高山だからかそれともここが神仙の住まう特別な地だからなのか。幽蕾山には風が絶えない。いつだって心地良い風が美しく山の風景を彩っていく。
 神の地と謳われて何ら遜色ない山へと天羽は清々しい気分で分け入っていく。宮である霞晶洞から天羽の気に入りの場所に行くまでにはそれほど時間はかからない。花崗岩の小道を通り、青々とした葉を茂らせる牡丹の茂みを通り抜け、ざわめく若木と野の花が咲き乱れる小さな林を歩いて抜ければ、銀色の泉が溢れる草地まではすぐだ。冷たい清らかな水と咲き誇る水芭蕉。小鳥の声とせせらぎに耳を傾けながら心地良い雑音に浸るのは何とも贅沢な時間だった。
 ふわと風が吹き、天羽は目を細める。遠からん天空と遠からん地上。ここはどこよりも切り離された場所。水の気配と草木の息吹が天羽を優しく包んでくれる。深く息を吸えば、澄んだ空気がいっぱいに肺を満たす。ぴぴと鳴く紺碧の小鳥が二羽、天羽の肩に舞い降りて紅鳶色の髪と戯れた。彼曰く、この髪の色は人に温もりを与える恵みの炎の色なのだとか。天羽自身はそう大層でもない赤茶けた髪を特に好んでいるわけではなかったが、愛しげに口付けを落とす彼を見ていると不思議と胸は高鳴った。
 肩に乗る小さな重みに戯れに手を差し出す。すると、小鳥はなぜかその翼を広げ呆気なく舞い上がってしまった。普段ならば慣れ親しんだ天羽の指先に勇んで乗ってくるのに。どうしたことだろうか、と首を傾げたそのとき。

「なんだお前?」

 男の声がした。この山にいる男は天羽を除いては伴侶たる灼銀ただ一人だが、今し方聞こえた声はどう考えても低く軽やかな愛しい狐の声ではなかった。警戒を走らせた天羽が辺りを見渡せど、目に入るのは一面の新緑ばかり。人影など見つけられもしない景色の中で声だけがせせら笑う。

「おいおいどこ見てんだよ、ここだよ」

 瞬間、顔面に向けて強い風が吹き、下草が千切れて中空へと舞い上がった。思わず目を庇うように閉じた天羽が次に視界を取り戻したとき、目の前にあったのはあまりにも鮮やかな赤だ。それが装束の色だと一瞬遅れてから気付く。どこの国のものともつかぬ変わった装飾は以前書で見た神仙が好んで纏う道着というものに似ていた。手首まできっちりと布が覆った弛みのない衣装。足元は革の靴、金で出来た足輪や腕輪。くすんだ金色の短い髪。引かれた強い意志が伺える眉と目許。嵌め込まれた瞳の宝玉はこれまた見惚れるような金色をしていた。通った鼻梁。焼けた肌。武人の雰囲気が漂う男だが、背丈はそれほど高くはない。
 天羽は訝しむ。そもそも神仙の領域である幽蕾山に容易く侵入して来るとは一体何者だというのか。この山へはたとえ神仙であっても、主である銀紗羅真君の許可を受けたものしか入れぬはず。万が一、彼の許可を受けた者だとしてもこんな宮から離れた場所で何をしているというのだろう。心持ち後退りながら、相手を伺う天羽に男は眉を跳ね上げる。

「人の質問には答えようぜ?お前誰だ?」
「…それはこちらの台詞だ」
「ん?んん?お前、人…じゃねぇな仙人か?それにしちゃ力の欠片も見えねぇが…」

 男は無遠慮に好奇心に彩られた金色の強い瞳で天羽を覗き込んでくる。
 その容貌のせいで見られることには慣れている天羽だが、それにしてもここまで遠慮なく見られるとさすがに居心地が悪い。憮然とした表情で不快を表しても、男は一向に気にした風はないらしい。それどろか散々唸った挙句に何事か己の中で思い当たった節があったらしく、まさかお前、などとぶつぶつ呟いている。何なんだ、この男は。

「まさか、なぁ?」

 天羽の不機嫌もお構いなしに、唐突に割と大きな声で呟いた男はやはり唐突に腕を伸ばすと、遠慮も恥じらいもへったくれもなく天羽の着物の合わせから唐突に手を突っ込んだ。
 素肌に男の肉刺だらけの掌が触れる。ぶわああああっと爪先まで鳥肌を立てた天羽が身体を跳ねさせると、男はどうやらそれ以上の目的があったわけではないらしく呆気なく手を離した。そして、相変わらず怪訝な顔で首を捻る。

「そりゃ男だよな…」
「そこの山猿。我の天羽に何をしておるのかえ?」

 それは正真正銘の殺気だった。
 天空から星の煌きの如く刃が降り注ぎ、男の真上へと降り注ぐ。だが、男も如才ない動きで背後に飛び退り、難を逃れる。今まで男の立っていた場所には明らかに人の力ではなし得ない白刃が煌きを放ちながら突き刺さる。
 突然の出来事にそれをただ眺めていた天羽は、急にばさりという物音を耳にして目線を動かす。だが、それよりも先に牡丹の香る胸元にぎゅうと頭を抱き寄せられ、ああと嘆息した。視界で純銀の髪が揺れている。藍鉄の着物に焚き染められた花の香。白磁の美しい肌に灰銀の睫毛に彩られた真紅の瞳。普段は優しいその目が今は強くなって真っ直ぐに前を睨みつけている。その視線の先はと言えば、案の定先程の男。天羽もそちらへと視線を返すと、彼はあんぐり口を開けて惚けているところだった。
 一瞬の間。殺気立っている灼銀とは裏腹にどこか滑稽な動きで頭を抱えた男は、今生の終わりのような叫び声を盛大にあげた。

「はああ!?おいおい冗談きついぜ、九尾!三世一の大妖が一体どんなご乱心だ!?」
「それは主であろう、袁王(えんおう)。声を荒げるでない。天羽の耳が痛んだらどうしてくれるのえ?」
「大体、慈澪(じりょう)の野郎が言ってたんだぜ?九尾が三世一可愛い嫁を娶ったと鼻の下を伸ばしてたってな!」
「主には天羽がどう映るというのかの。可愛らしゅうないとでも?醜いとでも?」
「………うわ」

 男は金色の髪を掻き毟るように滅茶苦茶にすると、心の底から重たい吐息を吐き出した。会話の内容から察するにどうやらこの二人、かなり気安い既知の仲らしい。ということは目の前の男も神仙なのか。
 天羽の知る唯一の神仙である霞晶洞の住人たちとは大分趣の違う男に先程まさぐられたことはすっかり忘れて、天羽はまじまじと男に見入る。袁王、と灼銀は呼んでいた。その音にはたと思い出す。野猿の主と己が称されることを笑い飛ばして、なれば我は猿王か!と言った妖が遙か昔のこの世にはいた。

「清天大聖真君(せいてんたいせいしんくん)…」

 千年の歳月、月光を浴び続けて成した岩石精。生まれ落ちた彼は怪力と圧倒的な武術の腕を持ち、慢心した。玉帝黄龍の宝物庫から神器である如意棒を盗み出し、数多のならず者の妖たちを率いて世を混乱に陥れた。そのとき名乗った彼の名は征天大聖(せいてんたいせい)。天を征すという玉帝への宣戦布告と共に彼は暴れに暴れた。だが、やがてはその悪行も玉帝の差し向けた軍勢によって終止符が打たれ、百年の反省を経て妖から神仙と成ったという。今はその名を玉帝にも認められ、武運と武芸を司る神として人世でも大いに知られている。
 無論、この一連を書で読んだとき、天羽はよくある御伽噺の類だと思っていた。妖が世を乱した時代など実際には存在していないのだと。だが、今正に神話の世界の住人が天羽の目の前にいるわけで。しかも、天羽が呟いた言葉に割と単純に目を輝かせているわけで。
 どうやら岩石精が征天大聖がなったわけ、単純にこの男の顕示欲だとかそういう理由も一端にはなきにしもあらずなのかもしれない。

「何だ何だ、俺様の名前知ってんのか?流石にこの袁王様は世に知れ渡ってるよなぁ!」
「悪行が、であろう?我と慈澪に罰された幾星霜、忘れたとは言わせぬえ?」
「嫌なこと思い出させんなよ…大体、お前だって宮中惑乱とかやったくせによく言うぜ」
「主に比べれば可愛いものやて。我は宝物と人世の享楽に興あっただけのこと」
「は!その方が余計たち悪ぃだろ」

 この世に伝わる伝承に「三妖災厄」というものがある。
 文字通りそれは三人の妖による三つの人の世への災厄で、一つ目が半人半蛇の妖による「戦祭」、二つ目が九尾の狐による「宮中惑乱」、三つ目がこの袁王による「妖騒動」。
 そうだ。天羽はそれを知っていた。しかし、御伽噺として取り込まれた逸話は、無意識のうちに現実と切り離されていたのだろう。今の今まで思いもしなかったが、灼銀は白面銀毛の九尾狐であり、その口調は宮廷の上流階級の言葉である。書庫には一国の王でなければ揃えられないような貴重な書、宝物庫には芥のごとく無造作に積み上がった金銀珊瑚、茶器に壺に絵画。状況証拠は揃っていた。こうまでしてなぜ気が付かなかったのか、逆に不思議なくらいだ。

「まあ、とりあえず機嫌良くやってんならいいや。俺は帰る」
「そうしや。しかれど袁王、次に天羽に悪さしてみろえ?塵も残さぬからな」
「はいはい、お前の妖術で焼かれないうちに邪魔者はさっさと退散するっての」

 言うと男は何もない中空でふっと掌を返した。すると、確かに何もなかったそこにいつの間にか一本の棍がある。朱色に金の金具が嵌め込まれたそれを淀みのない仕草で地に突き立てると、男は得意気に唇を歪め、一言叫んだ。

「伸びろ!」

 その声に応えるように棍の先端はずぶりと地面にのめり込み、反対側の先端は男をくっつけたまま恐ろしい速度で空へと伸びていく。それは一瞬の出来事。天羽が驚いて瞬きしている間に男の姿は空に吸い込まれるように見えなくなり、残った棍の根元は霞のようにかき消えた。おそらくあれこそが征天大聖が龍神から盗んだ神器、如意棒であろう。仙界の宝の不可思議を初めて目の当たりにし、しばらく空を見上げていた天羽は、己を抱きしめる腕に力がこもったのに気がついて視線を戻す。見れば愛しい伴侶が泣きそうな顔をして、天羽の瞼に唇を落とすところだった。天羽は目を閉じてそれを受け、彼は再びそれを繰り返す。両の瞼にしつこいぐらいに。一体どうしたのかと天羽が問う前に、今度は強く頭を胸元に引き寄せられた。低い声が天羽の耳元にそっと囁く。

「あまりきゃつの後ばかり追うでないよ、天羽…」
「灼銀?」
「我を見ておくれ。主の美しい瞳に映るは我だけで良しに」

 そう力なく呟く灼銀が何を思っていたのか、ようやく理解した天羽は思わず唇を緩めた。もう本当に、これがあの美女に化け、他を貶め、政を乱しに乱した九尾の狐だと言って誰が信じるだろうか。玉帝によって討伐された狐はその後改心し、真君の地位を貰い受けて一山一洞を得、一人の人間を娶って生涯の契りを結んだなんて。恐らく最後に付け加えても誰も信じて貰えまい。これは二人だけの神話だ。
 顔を上げて、天羽は腕を伸ばす。彼の頭を抱きしめるようにして唇を彼に。驚いたような表情が愛しくてますます笑う。真紅の瞳が本当に綺麗で、本当に柔らかで、本当に。

「好きだよ、お前だけが」

 感極まった灼銀の抱擁を心地良く受けながら、天羽は伴侶の香りに浸った。それは何時だって天羽を幸福へと導いてくれる。蒼穹が永劫あるようにずっと、ずっと。


06/06/11
(14/12/06 改訂)

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