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落花雨の銀狐4

 風が吹く。新緑を打ち鳴らす爽やかな涼風の余韻に、山の全てが応えるかのようにざわめく。白水晶が所々に見え、豊かな山肌には美しい花が咲き、清流の流れが緩やかな音を立てる麗峰の名は幽蕾山。神仙が降りし場所だからこその美麗故、この地には何用あろうとも、只人は入り込むことは出来ない。この場に存在できるのは、山を司り、次いで麓にまで続く水脈、地脈、龍脈を見守ることを玉帝より任された、白面九尾の大狐、霞晶洞が主を務める銀紗羅真君と、彼に仕える数十名の女仙たち。そして、極最近真君の望みにより、昇仙されるのを許された彼の「妻」である羽天(うてん)夫人だけだ。

 正直、天羽はこの呼び名は何度も止めてくれ、と懇願したのだが、神仙の世界において真名は何よりも重要なもの。よって灼銀もその麗しい名を天羽にしか呼ばせぬし、名を呼ぶのは夫婦の契りを交わすと同じえ?と言われてしまっては。天羽には最早ぐうの音もない。黙して、女仙たちが羽天夫人やら羽天様と呼ぶのに慣れるしかないのだ。ただ、有難いことに契りを交わしたばかりの二人を気遣ってか、女仙たちは天羽の宮にはあまり遣って来なかった。故に天羽は此処では膨大な数の書に好きなだけ没頭するのと愛しい銀狐に寄り添って過ごす時間とを十分に与えられている。
 それは穏やかで静かな時間。何を強要されることはない。遊女の嫌いな香や紅の匂いを嗅ぐことも。父に真剣に家業を継ぐように窘められることもない。だが、まだ時折、無性に自分が去った場所が恋しくなることもある。赤い柱に瓦屋根の妓楼。天羽が生まれ育った場所。父親の腕。母親の古い記憶。そんなものがまざまざと蘇ると。

 天羽は自分の宮を離れて此処へと来る。

 小さな庭だった。まるで忘れられたかのように百日紅の桃色の花だけが咲く場所に、小さな小さな泉が湧いている。枯れた小さな葉が一枚だけ浮かんだ泉を覗き込めば、そこに映るのは天羽の姿。紅鳶色の髪に、蜜色の瞳。白い肌は女仙にまでその肌理細やかさを羨ましがられ、天羽は大層彼女らの羨望を窘めるのに苦戦した。身に纏うのは白緑に紅海老茶染を入れた着物。銀に僅かに緑がかった反物から何だか酷く楽しそうに灼銀が、選んでくれたものだ。肌触りからも本当に上物だと解る品に、別に着るものはどうでも良いからと言う天羽に対して、頑として灼銀は首を横に振った。その色が似合うだの何だの言って、終いには美しい人は美しいものを纏うべき、なんて。一笑に付せば良い言葉に思わず、赤くなってしまった天羽の負けなのだろう、きっと。

 覗き込んだ泉の鏡面がゆらりと揺れる。透き通っているはずの水は何時しか色彩豊かな映像を映し出す。それは天羽の見慣れた光景だった。街の中央に堂々と構える銅屋。軒下の鈴。整えられた庭に敷き詰められた砂利。遊女たちが控える大部屋では、夕暮れからの仕事に備えて女たちが化粧箱を引っくり返すのに忙しい。手先も忙しいが口先も忙しい彼女らの最近の話題は、専ら「一夜にして失踪した若旦那と遊女のこと」。

―やっぱり駆け落ちやんね。
―ええやぁ、憧れやねぇ。わっちにも何時か良い人が…、
―あんたには当分、無理さぁね。
―晶白の姐さんもやるよ、一夜で添い遂げるとわぁ。
―でも、そないな大旦那は跡取りどないするんだろね?
―ねぇ、大奥様も亡くなってるし、旦那も寂しいやろて。
―あの方はお優しいから…心痛でもせんと良いのに…、

 そこでざわりと風が吹き、水面が揺らいだ。途端に消し飛んでしまう遠い場所の光景に、天羽は少しだけ思いを馳せて、眼を閉じると、深く息をついた。此処で父親の姿が見えなかったのは良かったと思う。恐らく、意気消沈している父を見れば、天羽の決意は少しでも揺らいでしまったかもしれないから。最早、戻れないというのに。過ぎてしまった遠い過去を、振り返ってもどうにもならない。目の前に新たに拓いた道を。歩むしか、天羽にはない。それは、天羽が自分で下した、決意だ。

「………天羽、」

 物思いを打ち破る声音に天羽は、はたと振り返った。見れば、少しだけ寂しげな表情で立っている一人の男がいる。見上げるような長躯だが、線が酷く太いわけではなかった。むしろ、銀色の長い髪に白い肌、目立つ真紅の瞳は、華奢な彼の姿を強調するよう。身に纏う天羽の着物とは違う、純銀の直衣も彼のすらりとしたしなやかさを際立たせる。酷く整った顔立ちだ。額にある異国の呪文を刻んだ真紅の紋様が更に一目を惹いた。天羽は彼の名を呼ぶ。灼銀、と。彼は卒のない動きで近寄ってくると、その腕を伸ばした。広い腕に、天羽は導かれるままに、そうっと、抱きしめられる。ふわ、と香る仄かな華の香。牡丹だと思うか思わないかのうちに、その腕の拘束が強くなった。天羽、と名を呼ばれる。純銀の髪が天羽の周囲に几帳のように落ちる。緩やかで、強い、そんな抱擁に天羽は眼を細めた。

「…帰りたく、なったのかえ?」

 まるで恐ろしいことを訊くように、彼が問う。今にも震えだしそうな声音に天羽が一瞬押し黙ると、何を思ったのか、灼銀は天羽を抱きしめる腕を緩め、その視線を下ろしてくる。こつりと額と額がぶつかる音。間近に、彼の端正な表情。けれども、嗚呼、まるで情けないことに、その顔は親に置いていかれそうな子供みたいに、不安げで、泣き出しそう。

「帰らんといておくれ、天羽。我の元から消えてはいかんよ」
「………消えたりなど、するものか」

 こんなに優しくて、それでいて臆病で、天羽を、こんな男を愛してくれる狐をひとり残して。
 何処かへ行けると言うのか。天羽にはもう、帰る場所なんて本当はない。此処へ来ると決めて、彼の手を取ったその日から。天羽の帰る場所は「此処」になった。彼がいる場所。純銀の毛皮と九尾を持つ狐が、ただ一人存在している場所へ。そんな想いの全てを込めて、天羽は彼の唇へと己のものを寄せる。ちゅうとただ触れるだけの口付けが、それでも意外だったのか。一瞬眼を見開いた灼銀は、その後すぐに嬉しそうに眼を細めると、お返しと言わんばかりに。天羽へと唇を落とした。触れるだけ。それでもこんなにも満たされる触れ合いを、天羽はこれまで知らなかった。微笑めば、同じ分だけ返ってくる優しい笑み。それが、こんなにも温かで、愛おしいものだったなんて。

 戻ろうえ?と言う声にああ、と答える。まるで子供のように二人で手を繋いで、宮の回廊へと続く庭の小路を歩いた。二人分の髪を乱す柔らかな風。静かな静かな場所で、小鳥の声だけが時折高く空へと響いた。この声はなんの鳥だろう。書物で学ぶだけでは解らない音や匂いや色や。そんな色々なものに、今や天羽は酷く興味を示すようになった。この山の地名や図鑑にも載らぬような野花の名を、訊く度に微笑して教えてくれる彼がいるからだろうか。他人と共にあることを疎んでいた天羽は、今、誰かと共にあって満たされる。繋がった手。それが、何よりの証。たとえ、この身と彼の身と違う種族の血が流れていようとも、身も心も繋がり、指先までも、その幸福に、彩られる。

「そうや」

 唐突に天羽の手を引いて歩いていた灼銀が言った。顔を上げれば、楽しいことを思いついた時の晴れやかな笑みで、彼は天羽を見た。笑うと、細くなってまるで優しい色を落とす彼の真紅の瞳が、天羽は殊更好きだ。

「主の宮の奥にも庭を作らせようぞ。書読の息抜きにもなろうて…。どうえ?天羽は何ぞ好きな花でもあるか?」

 彼が言う。柔らかな笑顔。嗚呼、雨はあがったけれど、天羽があの時感じた高鳴りは正にこれだった。白牡丹の咲く庭で一匹で霧雨と踊っていた銀狐。彼の瞳に射抜かれて、彼の柔らかな心に触れて、今此処にいる天羽は。ふわりと笑って彼に言う。幸福を唄って、その手にぎゅっと力を込めて。


「それなら、白牡丹を」


 君に似ている、美しき大華を。
 何時も、君を想って。君と共に、愛でるための花を。


06/06/02

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