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落花雨の銀狐2

 宴が催されていた。
 遊戯台の設置された広間には妓楼・銅屋に莫大な銭を落とす上客が何十人。その相手として、酌をし、舞を踊り、楽を弾き鳴らす女はそれよりももっと多い。華やかな花魁衣装に華やかな髪飾り。焚き染めた香の匂いは深く強く、差した紅の色は何よりも赤い。長い袖をまるで重たい翼のように振るい、彼女らは卒のない笑みを浮かべて、男の間を舞う。
 この場にいるのは皆、王都でも指折りの豪商ばかり。女一人買い落とすのに、何ら金銀渋る必要もない者たちばかりだ。巧くいけば一生を遊んで暮らせるような生活が手に入るかもしれない、と美しい小鳥たちも麗しい笑顔の裏では必死。そして、高級妓楼の跡取り息子も、十二分に彼女らにとっては魅惑的なお相手なのだろう。天羽は二三人の女に纏わりつかれるように酌を受けながら、漆塗りの高坏の上に美しく盛られた豪勢な食事を箸で突つく。
 海が遠い斉の国だが、その代わり清流を持つ梁江(りょうこう)と近隣山河の恵みは筆舌にし難いほど素晴らしい。漆皿に乗る香魚の南蛮漬けは恐らく今日揚がったばかりのもので、他にも山菜と里芋の煮付けに色の美しい蓮玉子、白瓜の冷汁、山椒の利いた小魚の飴煮、茄子の田楽、それに味噌餡を包んだ麩の焼きが添えてある。宮廷料理に勝るとも劣らないほどに典雅で料理人の腕と感性が伺えようというもの。味だけでなく、見た目も申し分ない。それに天羽は肉食を好まなかったから、余計に今宵の献立には好感が持てた。そう、美味いはずなのだ。香魚も蓮も白瓜も皆、天羽の好物。だが、天羽の心は今、美味なる料理と酒にも美しい女にもなかった。

 気がつくと、銀色の毛皮がちろちろと夢想の視界を舞う。

 純銀の九尾を振るい、霧雨の中を踊るようにして駆けていた獣。濡れた白牡丹の僅かな芳香に混じって戯れていた。その姿は天羽が今まで見てきたどんな光景よりも美しい。今も、眼を瞑ればまるで目の前のことのように蘇る。ふわりふわりと中空を足場にして翔ける妖。鉱石のような銀色の毛並みは、この世のものではないほどに煌いていた。天羽の興奮と感動は、正に「美」という根源を見せ付けられたような衝撃によく似ていただろう。全ての思想と根拠が覆されたかのような感覚。人里離れ、人と関わらず、時に害なし、時に厄を成す、妖の一族。だが、嗚呼、もう天羽は抗いがたいほどにあの天狐に魅入られていた。それが呪いや憑きものだとしても構わなかった。具体的に自分が何をどう望んでいるかは解らぬ。しかし、天羽はもう一度、そう一度きりでも良いから、狐に会いたかった。美しきけだもの。今更ながらに、あの時、逃げ出したのを悔やむ。あの時はただ怖かった。見知らぬ感情、見知らぬ出会い。無様にも全てに怯えていた。しかし、その後、心静かに考えれば、天羽は確かに射抜かれたのだ、真紅の瞳に。恐らく今後の人生において、ただの一度しかない邂逅において、心の臓を、奪われてしまった。

「天羽、これ、天羽」

 何時も以上にぼうっとしている息子を見兼ねたのだろうか。父が相変わらず女を二三人連れ立って近寄ってくる。思い出したように蓮玉子を口に入れながら、気だるそうに天羽は彼を仰ぎ見た。若干だが酔っているのだろう。やけに酒に強い天羽と違い、父は人並みに酒に呑まれるたちなのだ。顔の赤い彼は、機嫌良さそうに笑って言う。

「そう機嫌の悪い顔をするでない。女たちが怯えるであろう?」
「…余計な世話です」
「はは、だが之よりはお前もこの世の極楽を見られるぞ。晶白太夫(しょうはくだゆう)が舞をとる」
「………晶白、…?」
「この間ふらりと現れた女だが、何、これが上物よ。唄も舞も楽も天下一品。まるで仙女と言う者もいる始末。
 今宵が太夫のお披露目だ。お前も心して見ておくが良いぞ」

 父がそう言い終わるのを見計らったかのように、しゃっと軽い音をたてて、広間の引き戸が押し開けられた。美しく膝を折り、指を突いて、頭を垂れる一人の女。銀色の髪だ。長いそれを美しく結い上げ、金に翡翠の簪で飾っている。身に纏う花魁衣装は銀に金の重ね、そして紅牡丹。一目で意匠を凝らした高級品を解るそれを見事に着こなし、鈴の音を響かせながら彼女は鬱蒼と顔をあげる。零れ落ちる後れ毛。あちこちでその美しさに息を呑む声が、聞こえる。

 女は、真紅の瞳を、していた。
 天羽は、射抜かれたように、動けない。

 彼女は麗しく裾を引き摺ると、静々と広間の両側に並ぶ男たちの間を優雅に歩んでいく。ゆうらり、ゆうらりと。彼女が足を動かすたびに、金色の簪が揺れ、灯篭の光に反射して、ちらちらと輝いた。一房一房が芸術品かとも思えるほどに美しい髪。白磁の肌に華やかな柳眉、目許は清涼の如く、睫毛は陰影を落とすほど長い。その場にいた誰もが彼女の美しさに声を失くした。この世のものではないほどに、美しい女だった。まるで、幽谷を翔ける仙女だと言われても、即座に否定することは出来ないだろう。美貌と呼ぶのもおこがましいほどの美貌。
 天羽は彼女を呆然として見た。確かに彼女の美しさに、ひれ伏したくなるほどに見惚れているのもあったが。しかし、頭の冷静で騒がしい部分は違うことを叫んでいる。似ていた。あまりにも。あの雨の中で舞い踊っていた、狐に。いや、しかし、あれは立派な雄狐であったはず。今目の前をしゃなりと歩くは、明らかに女だ。それとも、妖ともなれば化けるに性別など関係ないのか。それに、全くの他人ということも考えられる。銀色の髪に真紅の瞳の女がこの世に何人いるかは知らぬけれど。可能性が全くない、というわけでは、ない。

 彼女はちょうど広間の真ん中まで歩んでくると、着物の袖からゆたりとした動きで舞扇を取り出した。何処からともなく、楽の音が鳴り始める。しゃん、しゃしゃん、という弦の音と共に、女は静かに舞い始めた。見事。父が感嘆したのも頷けた。無駄のない動き、音に乗るような扇、楽と女は一体になり、美しい調べを作り出す。誰もが女の作り出す軌跡に見惚れた。誰もが呼吸をするのも忘れて見入った。誰も酒の御代わりを所望する者はいなかった。静かに響き渡る楽と女の衣擦れの音。広間の全てが、女と、その舞に魅了された。美しき天上の舞だ、と誰かが呟く。そう、それは正しくに人の世のものでなきもの。あの雨の日に、天羽が銀色の狐に感じたのと同じように。美しい、美しい、美しい。言葉はそれだけしか出てこない。女は舞う。緩やかに静かに情熱的に。楽の曲調が変わっていく。今まで穏やかに野の原の風景を描いていた音色は、静かだが熱っぽく想い人を恋うための唄へと変化する。それは舞手である女も勿論同様に。鮮やかに恋心を表現する動きに、酔いも醒めたように男たちが僅かにどよめいた。正に魅了。女はその舞一つで広間の全ての人間を虜にして、そして、やがてゆったりと動きを止めた。楽の音も止まる。女が裾と袖を捌いて、優雅に礼を取れば、代わりにどっと盛大な拍手が沸き起こった。
 女を褒め称える声。捻り銭を投げる者までいて、広間は大いに盛り上がる。その声の一つ一つに微笑を向けながらも、彼女はゆっくりと裾を引き摺り歩んでくる。そう、彼女は天羽の前へ。ゆっくり、ゆっくりと近寄ってきた。銀色の色彩が傍へ。真紅の瞳が尚、天羽を見つめた。彼女は笑う。控えめな笑みを零して、少しだけ会釈をした。彼女からは強い伽羅の匂いはしない。代わりに、香るのは僅かな牡丹の香。天羽は急激に心臓が跳ねるのを感じた。

「おお、晶白。良き舞であったぞ」
「…恐れ入ります」
「相変わらず口下手な女よ。またそこが良いのだが。どれ、天羽、お前も気に入ったか?」

 天羽は父の言葉に答えなかった。ただ、ふわりと目の前の女が微笑むのに心臓が跳ね、その頬に手を伸ばす自分の動作を、まるで自分のものではないように見ていた。天羽の指先が、まるで壊れ物にでも触れるように、女の頬にそっと触れる。その瞬間に伝わる柔らかな熱。温かい。血が通う生き物の温度だ。何故か、酷く感動した天羽に、女は恥知らずと怒りもせずに、愛しそうに眼を細めると、そっと天羽の手に己の華奢な掌を重ね、擦り寄った。静かに繰り返される愛情の表現。触れ合っているのは確かに欲望的でも何でもない掌と頬なのに、天羽は全身に震えが走るのを明確に感じた。彼女は求めている。そして、たぶん、それは天羽も、同じだ。

「―天羽、」

 背後に座っていた父が感嘆のように声を漏らした。そして、彼はその精悍な顔を万感の思いで引き締めると、ぱんぱんと二度両手を打ち鳴らす。すると、天羽に纏わりついていた女たちはまるで号令を受けたように離れ、広間の引き戸が開かれる。暗い廊下からは提灯を提げた侍女が現れ、広間にいる人々に向かって深々と一礼した。

「天羽、その女の姫初め、お前に任せよう」
「父上?」
「旦那、それはない。我らはまだ、太夫の舞を楽しみたいぞ?」
「今宵の大輪、もう摘み取ってしまわれるおつもりか?」
「すまなんだ、皆の衆。だが、知っての通り我が息子は懸想も録にせぬ親不孝者。
 時にその息子が女に興味を示したとあらば、是が非でも背押してしてやりたいもの。どうぞ親馬鹿者と笑ってくだされ!」

 父のその言葉にどっと広間が沸いた。どうやら大旦那である父親の会心の道化に、上客たちも納得してくれたらしく、散々にからかいの言葉を投げつけながらも、天羽は押されるがままに、酒と紅の匂いに満ちた広間から追い出される。ぱたりと引き戸が閉じられ、喧騒も光も閉ざされれば、後に残るは肌が焼け、足と腕の細い侍女と僅かな提灯の灯り、そして、天羽の隣で相変わらず鮮やかな笑みを湛えて立つ、一人の女。天羽が見遣れば、彼女はさも幸福と言わんばかりに、首を傾げて微笑んでみせた。何だか、その笑みが堪らなくて、天羽はぱたりと眼を背ける。暗闇の中、侍女が低い声で言った。

「此方です」

 床を鳴らして、彼女は歩き始める。廊下を踏みしめる音がやけに高く響いた。


06/05/30

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