ibaraboshi***

home > 小説 > , , > 落花雨の銀狐1

落花雨の銀狐1

 雨が降っていた。白く煙るような雨だ。細かい雫が幾筋も天上から降り注ぎ、土も木々も草も花も人さえも濡らす。降り注ぐ雨音には国境も街も関係なかった。それは、曇天に覆い尽くされた斉(サイ)の国、王都も例外ではない。立ち並ぶ蘇芳の漆塗りの太い柱と瓦屋根の街並みにしとりしとりと降り続ける雨。もう、三日も晴天は拝めていない。雨が風流だ何だのと言うのは暢気な知識人か天上人ばかりで、街の人々はいい加減飽き飽きしているようだった。何しろ雨が続けば人の出も当然鈍るし、行商も市も思うようには賑わわない。外を歩けば泥が跳ね、馬は外出を渋る。洗濯物は乾かないし、幼子は夜泣きを始めるし、店先に何時も漂っていて活気を思わせる蒸気も見られることはなし。おまけに思うように仕事が捗らない男どもはとっとと妓楼に赴いて、若い女と宜しくやってくるばかりか、銭を使い込むのだ。雨で神経を削るのは所帯持ちの女ばかり。彼女らのピリピリした雰囲気が伝わるかのように、やはり、曇天は晴れなかった。

 一方、《此処》はそんな慎ましくも賑々しい日常とはまるで無縁だった。部屋に響くのは屋根を打つ雨の音と、書を捲る湿気た紙の音だけ。藺草の香りが今日は一際濃い。恐らく霧のような細かい水滴を多く吸い込んでいるからだろう。障子戸を通して入ってくる光は極僅か。しかし、行灯に光を灯してまで、一人の青年が文字を追っていた。柔らかい紅鳶色の髪に緩やかに透き通った蜜色の瞳。優しげな色彩に酷く整った顔立ちが、余計に美麗な雰囲気を醸し出す。
 若々しい美丈夫だった。脇息に寄りかかり、黒檀に螺鈿が施された文机に広げられた書を一心に読み拾う姿がやけに絵になる。着込んだ青碧色の着物は涼やかで、首筋から胸元にかけては白い肌が僅かに覗いていた。均整の取れた身体。決して厳ついわけではなく、男性らしい健やかさに満ちていた。彼の名は、天羽(あもう)、という。今は亡き母が付けた名。天を統べる翼の名だ。

 天羽は墨で書かれた書の文字を飽きることなく読み耽っていた。《本の虫》と笑われる程、彼は書を愛している。王都であるこの街へは数多くの商人が行き交い、数多くの物品が持ち込まれ、そしてまた、排出される。斉の国のみではなく、他の小王国の品もその中には多かった。食品、工芸品、反物、工具、日用品、そして書物。異国の書は特に天羽の興味を惹いた。幻想の物語を綴ったもの、花の名を事細かに記したもの、妖や神仙について述べたもの、医術に用いられる薬草が綴られたもの、昨今の情勢を記し残したもの。書は天羽の興味を満たすのに最適だった。酒にも女にも興味はなかった。ただ、書物と過ごす穏やかな時間さえあれば、天羽はそれで満足だというのに。けれども、天羽の出自はそれを許さない。キシキシと簀子を軋ませる足音に、彼は鬱蒼と書から眼を離した。確かめるべくもなく、障子戸に男の影が映りこむ。天羽入るぞ、という有無を許さぬ声の後に、一人の壮年の男性が顔を覗かせた。

「またこのように暗い場所で書など…。店へ出ろと言っただろう?」

 男は酷く重たい吐息を吐く。その顔には僅か一代にして、財を掴んだ男の努力と苦労が滲み出ているようだった。深く刻まれた眼窩に強く引き結ばれた唇。着込んだ松葉色の着物は一目で高値のものであると見て取れた。
 よく見れば、その目許や鼻の辺りは天羽に似ていなくもない。若かりし頃はさぞや美男子として持て囃されたであろうことが、ありありと想像出来る彼は、正真正銘、天羽の実の父親だった。今や、天羽に小言を言うのを日課にしているが。

「香と紅の匂いは好きません」
「………、全くいらぬところまで母に似たな。あれも紅は好かぬ、香は好かぬと何時も素面であったことだ」

 最早、聞き飽きた父親の言をさり気無く目線を書物に戻すことで拒絶しながら、天羽は紙を捲る。天羽の自室を訪れる度に父親はため息をつき、諦観の言葉を零して天羽を諌める。次に来る言葉は容易く想像がついた。

「だが、お前は銅屋(どうや)の跡取り息子。商売に手を出さずして何とする?」

 そうは言っても興味がないものはないのだからしょうがない。
 父親がたった一人で築いた王都で最高の妓楼《銅屋》。最高の芸と最高の女と最高の酒を売るのが自慢の高級娼館。自分がこうして暢気に雨の音を聞きながら、書に没頭できるのも父とこの妓楼のおかげと十分解っている。しかしながら、天羽は妓楼の馬鹿騒ぎの様相も、美しく着飾り紅を差した女たちも美味い酒も素晴らしい楽の音色も好きにはなれなかった。天羽が望むのはただ静寂に満ちた穏やかな時の調べ。そう言えば、父は何時も困ったように眉根を寄せ、息を吐く。そして、そうは言ってもな、と天羽をどうにかしてその気にさせようと言葉を募らせるのだ。もういい加減に飽きたやり取り。努めて会話を行うのも億劫で、天羽は再び書の文字を追った。墨で流麗に描かれた薬草の名前に、その所在、特徴。何に扱うという目的も特になかったが、天羽は達筆に描かれたこの「薬師ノ書」が殊更気に入っていた。

「…もう良い」

 返事もせぬ天羽に嫌気が差したのか、父はそう言葉を区切るとすっくと立ち上がった。引き締まった痩躯だ。未だ衰えというものを知らぬ身体を身軽に運んで、父は障子戸を開きつつ、外へと声をかける。いやな、予感がした。
 天羽の予感は的中する。父の声に答えて、しゃなりとしかし、躊躇無く天羽の領域に入り込むのは強い紅の匂い。撫子の色合いの襟元が大きく開いた花魁衣装。高く結い上げた翡翠の髪に、金銀真珠の簪。眼差しは何処までも色香漂い、その身形に身のこなしから、銅屋でも指折りの女のようだった。彼女を買うには恐らく並みの人間が一月は、汗水垂らして休み知らずに働かねばなるまい。だが、そんなことは天羽には関係ない。ただ、擦り寄ってくる女の匂いに、露骨に顔を顰めてみせる。強い伽羅の匂いだ。天羽は、この匂いが好きではなかった。

「若旦那のお相手が出来るなんて…わちきは光栄で御座います」
「………父上、」
「天羽、女を抱くのは妓楼主人の仕事。お前もよく弁えよ」

 そう言い残して、父は障子戸をぴしゃりと閉めると来た時と同様に簀子を鳴らして去って行った。残されたのは天羽と一人の遊女。彼女は流石に手馴れた様子で天羽の着物の合わせから手を差し入れ、肌へと触れる。その淫靡な手先が、たまらなく不愉快で天羽は眉を顰めた。天羽だって、不能だの何だのと言うわけではない。父親が差し入れた遊女を戯れに抱くことだってある。だが、今日はどうしてもそんな気分にはなれなかった。書に没頭していたのを邪魔されたのもあるだろう。苛々する気分を振り払うように、女の手を振り払う。あ、と切ない悲鳴が聞こえた。だが、それに気を使うこともなく、天羽は立ち上がると畳を踏んで、障子戸を開ける。天羽様、と女が呼んだ。外は未だ絶えることなき霧雨の中。天羽は振り返ることも無く、裸足で雨の庭へと降り立った。

 白い砂利に白い大理石の飛び石。どれも遠い山岳から取り寄せたものと聞く。飛び石の上はつるつるとしていて裸足で歩いても全く痛くない。細い雫の雨は音も無く天羽の髪も肌も濡らしていく。冷たい温度が心地良かった。整えられた庭先は皐月の花が咲き乱れ、鮮やかに潤っている。菖蒲、姫百合、石楠花、桐の花に藤の花。まるで妓楼の遊女たちの如く、我先にと咲き誇る花々の中を天羽は、歩く。目指しているのは銅屋の中でも更に奥まった場所。そこには騒がしい色はなく、ただ一つの静寂だけがあったから。鮮やかな緑色の葉とそして堂々と一輪咲き誇る、白の牡丹。天羽が唯一好きな花だ。芳香はほぼない、麗しき大華。

 見慣れた抜け道を通っていく。此処まで奥に入り込むと、如何に妓楼とはいえ、静かなものだった。否、実際は妓楼など宵の口以外は静かなもので、宴の間でさえも、日の高いうちは冷ややかな静寂に満ちているものだった。
 ずっとそうであれば良いのに、と天羽は思う。浮世の賑わいなどとは馬鹿げている。華はやがて散り、朽ちるように。栄華は幾千年も続くものでは決してない。それが人の世で、人の作り出すものであるならば、尚更。銅屋の華やぎも果たして何時まで続くものなのか。天羽は解らない。天羽は知らない。知りたくもなかった。

 砂利を踏む。ささやかな雨の音に、やけにその音が響いた。妓楼の赤い柱の間をすり抜ける。軒下の錆びかけた鈴が、ちりりと僅かな風に揺られて鳴った。狭い場所に突如として現れる牡丹の園。白い花弁がまだ雨で散っていないことを、確かめた天羽が微笑むと、その視界に、牡丹とは違う白が。全くの、純銀が、ふうわりと舞い踊る。

 それはあまりにも美しい銀色の毛皮だった。

 霧雨の一滴までも避けるようにして、踊るように牡丹の庭を舞う。長く伸びた鼻面に真紅の瞳。ふわりとした毛皮に覆われ、牛ほどもある巨躯に長い尾は九本もある立派な雄狐だ。しかし、その異様な姿はただ単に野山に住む野狐というわけでは、ないだろう。白面九尾。それはかの者が妖である証。この世では、人間と寄り添いあうようにして、もう一つの種族が生きている。
 それは、妖として人とは区別された。人と一線を画し、それでも眼を凝らせばすぐ傍にいる、獣でもなく人でもない種。彼らは主に人里離れた山々などに住むという。天羽も天高く飛んでいく龍を何度か目撃したことがあるだけで、こんな間近で妖を見たのは初めてだった。それも、こんなに美しい獣を。僅かな風を巻き起こして舞う狐。その姿は、なんと優雅で美しいのだろう。目が自然と惹きつけられる。もっと傍で見たいと、無意識に思ってしまった。

 踏み出した足がじゃりと砂を踏んだ。はたと気がついた時にはもう遅い。伸び伸びと駆けていた四肢を止め、狐の瞳が流されるように向けられる。真紅の瞳。何処までも深い深い紅水晶が、天羽を射抜くように見た。ただの獣であれば、狐はとっくに天羽の前から逃げ出していだろう。だが、妖である獣はちっとも逃げ出す気配すらない。何を思っているのか、その澄み切った瞳に天羽を写し取ったまま、じいと此方を見つめている。静かな雨の音の中で。魅入られたように、天羽は動けなかった。赤の中に映る己。純銀の獣。美しき、人ならざるもの。
 凛々と、天羽を見つめるその眼差しに、一体どうしたというのだろう。天羽は気高い情欲を感じた。幾ら相手が美しいとはいえ、獣は獣。四肢なるものに何を狂ったというのか。けれど、一度感じた想いはもう、止まらない。心臓が騒ぐ。ざわざわと鳴るのは身体中を巡る血の流れ。無意識に指先が震えた。寒いからではない。顔も、首も、怖いぐらいに熱かった。今まで感じたことのないような、熱。どんなに美しい女を見ても高ぶらなかった己が。

 呆気なく、純銀と真紅に崩れ落ちる。

 自我を取り戻すように強く唇を噛んだ。何を思うでもない。それは恐怖。経験したことのない疼きに、天羽は戦慄した。無理矢理視線を引き剥がすようにして、身を翻す。踏み出した足が強く砂利を踏んで、傷が出来ようとも構わなかった。ただ、この場から逃げ出したい一心で天羽は駆けた。あの狐の、抗いがたい魅惑から逃れたかった。怖かった。忘れたい。何かが揺さぶられるような、変動。すぐにでも自室に戻って書を捲りたかった。静かな日常。穏やかで、何の音もない、日々。それをただ望んでいたはずのなのに、嗚呼、それなのにどうして。

「―どうして、」

 今、一番煩いのは雨の音ではなく、天羽の心臓の鼓動の音だった。


06/05/29

新しい記事

return to page top