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花紡ぎ人

 美しく整えられた庭先だった。もう牡丹の花弁は散ってしまったが、それに変わるように初夏の花が咲く。山躑躅に夏椿、額紫陽花の密やかな花が開くかと思えば、山脈を伝って流れる銀色の小川の畔には花菖蒲が咲く。もうそろそろ梔子の花も蕾を開かせるだろうか。深い緑や青色の小鳥が毎日やって来ては賑やかに囀っている。初夏は青や白の花が涼しげで良いと思う。日に日に頬を撫でる風に湿気が含まれるのは、暑い夏の予兆。無論、雲上に届くこうかというほどに高山である幽蕾山は、麓に広がる街や村に比べたら余程涼しいのだろうけれど。しかし、天羽には天然の毛布が常に引っ付いて離れないので、普通の人よりも体感温度が余計に上がることは自明の理。
 今は傍にいない純銀の滑らかな肌触りを思い出し、天羽は少しだけ口元を緩める。
 霞晶洞の本宮の奥。山肌を削りだした小さくて静かな場所に、天羽が主に日常生活を送る宮がある。白い桐で出来たまだ新しい柱や瓦屋根。本宮はこの一山一洞の主たる銀紗羅真君の好みで、木造ながら石床なのだが、天羽の宮は板張りの縁側に主に過ごす部屋も障子戸で畳を使っていた。天羽が生まれた斉の国は湿気が多い。それは傍にある梁江のせいでもあるのだが、地形的に四王国の中で最も南に国があるという理由も大きかった。そして、そんな国で如何に快適な住まい作るかをを考えたときに、木造で障子戸で畳ということになるのだ。
 天羽は斉の国の都生まれの都育ち。急に全ての環境が変わっては心細かろうという己の伴侶の計らいに、重々礼を言って、天羽は今日も開け放した障子戸からの風を受けながら、書を捲っていた。脇息に寄りかかりながら、墨と古い紙の匂いが鼻先を擽るのを楽しむ。記されているのは、古い国の地図だった。何しろ神仙の屋敷だから、書も酷く古いものが多い。千年二千年三千年はざらだという書庫に、天羽は眼を輝かせる。その上、蔵書の数も半端ではない。半地下の書庫には、冷たい空気と共に何万という本が眠っているのだ。一体誰がどんな名目で集めて、しかも今現在ほとんど痛まぬような管理を行っているのかと、かの銀狐に問えば、彼は目許を綺麗に細める遣り方で静かに微笑んで、書棚を指差した。首を捻った天羽が何事かと眼を凝らせば、そこには青白い虫がいた。否、それは虫ではなく、確かに虫のような人だった。極小ながら、ちゃんと人の手と足を持ち、頭は何だかやっぱり虫のようだが人だった。それも一匹や二匹ではない。書庫の書棚という書棚に、青白い虫人がいた。それが妖、それも小妖、と呼ばれる下級の何ら害を及ぼさぬ類のものだと漸く気付いた天羽が、何だこれは、と言えば彼曰く。

『《本ノ虫》』

 成る程。天羽が常々呼ばれていたあだ名にもちゃんとした起源があったわけだ。
 実際、《本ノ虫》たちは書を愛する人間には非常に友好的で、天羽が純粋に読書を楽しみ、書を大切にする人だと解ると、書庫に入り浸る度に、気さくに話しかけてくるようになった。まあ何と言ってるかまでは天羽には解らないのだけど。しかし、キャタタタタと聞こえる彼らの声は不快ではないし、天羽の要望に最適の書を探す手際は流石である。
 今日、天羽が捲る古書も彼らが探し出してきたものだ。四王国が四王国になる前の詳細な世の地図。興味深い地形や地理の名前をなぞるように追っていく。時に今でも残る川や山の名を見て、妙に楽しくなった。風が吹く。今日の風は心地良い。もう少ししたら、梔子の花の香りが乗るようになるだろう。それもまた、楽しみだ。

 ふわ、と吹く風が天羽の髪を攫う。僅かに変化したその流れに、天羽はふと書物から顔を上げた。この手の直感は果たして神仙となって養われたものなのか、それにしても異様なまでの的中率を誇るようになっていた。蒼い抜けるような空の端に見える、銀色の影。天羽は彼が空を翔ける姿が好きだ。光に照らされ輝く背の色。純銀の巨躯はまるで風そのものであるかのようにしなやかに動き、九本の尾が優雅に軌跡を描く。そして、射抜くような真紅の瞳は何時だって、天羽を捉えて離さない。たとえどんな遠くにあったとしても。中空から天羽を見つけた彼の瞳がきゅうと細くなるのを、天羽も見定めてやんわりと微笑む。空を自由に翔ける彼は、それでも翼なき己の伴侶の下へと舞い降りる。まるで優雅に。牡丹の花の香りをまとって。

「灼銀、」

 足音一つ
立てずに縁に降り立った九尾狐は、まるで甘える子猫のように天羽の背中にまず額を押し付け、それから頬をすり寄せると、長躯ですっぽりと天羽を閉じ込めるように丸くなって腰を下ろす。何時もなら、此処で、天羽、天羽、と甘ったるい声で鳴く彼であるが今日は妙に静かだな、と思えばその口に咥えられた小さな籠。何だ、と思う間もなく彼がそれから口を離したので、慌てて天羽は受け止めた。

「天羽、天羽、帰ったえ」
「ああ、お帰り。何処に行ってたんだ?」
「今日は浬鳴湖にの。なに、馴染みの龍に顔見せに行っただけ」
「龍、」

 浬鳴湖と言えば、斉の国を横断する大河・梁江の上流にある美しい巨大な湖だ。そこから梁江を初め、幾つもの河川が流れ出し、大地を潤す。翡翠色の水と白い大理石の色合いが美しいかの湖は、聖域と呼ばれ、古来から龍が住まうと言われてはいたが、まさか本当だったとは。龍なんてもっと人知れぬ場所に住んでいるかと思ったが、意外と間近にも存在しているものである。しかし、存外妖や神仙なんてそんなもので、本当は人が勝手に遠いものと思い、見ようとも思わないから見えないだけ、なのかもしれない。現に灼銀も小妖は街だろうと山だろうと川だろうと何処にでもいると言っていたことであるし。


「ふふ、三世一可愛らしい妻を娶ったと自慢しに向こうての」
「………、まさか俺のことか?」
「他の誰がこの銀紗羅真君の奥方かのう?」


 ふふ、と笑う彼は機嫌が宜しいようで、天羽は勝手に熱くなっていく顔を止めることは出来なかった。それは今正に天然の毛布にすっぽり包まれているからではないと、たぶんもうすでに彼も気がついている。すりすりと顔をすり寄せてくる灼銀から照れ隠しで眼を逸らすなんてことは、最早無駄な行為に過ぎないのだけれど。それでも、照れている自分が居た堪れなくて視線を落とした天羽は、ふと先程彼が咥えてきた籠に目を留めた。竹を細く裂き、丁寧に編み込んだ上でつや剤を塗った綺麗な籠だ。止め具は金と珊瑚。中の巾着袋は縮緬だろうか。紅紅葉に錦川の美しい織物が丁寧な作りを実感させた。ころんと両手にすっぽり納まるぐらいの籠に天羽が首を捻ると、それを運んできた張本人の銀色の狐がああ、と何でもなさそうに言った。

「祝いやて。奥にやるが良いと尊大に持たせてくれたわ」
「…俺に?」
「開けるが良いえ。なに、趣味は悪くないやつよ」

 口調からいってかなり気心の知れた仲なのだろう。その龍とのやり取りを思い出しているのか喉の奥で笑う灼銀に、天羽はしゅるりと巾着の紐を解いた。小さな籠の中に色とりどりに詰まっていたのは、桃色の珊瑚に翡翠の玉。びいどろで出来た七色のおはじきに、銀細工の透かしと螺鈿で蝶を模った帯止めに、綾織の帯紐、混ざりけのない銀で作らせた簪に鼈甲に桜の花模様をあしらったものと黄楊に真珠を嵌めこんだもの、二種の櫛。それから、何故だかよく解らないが白い草紙に包まれた蓮の実餡入りの小さな桃饅頭が五つ。

「…灼銀。俺が男だと言ったか?」
「そういえば、言わんかったかの」

 しかし美しいから良いではないか、と彼は笑って気にも留める様子はない。
 しかし、髪だって短い天羽が、簪やら櫛やらこんなに貰ってどうしろと言うのだろうか。どう考えても女性、少なくとも髪の長い人が愛用すべき品々を手に、思案してしまった天羽は、ふと、目の前を揺れる銀色の尾っぽを見た。ふわりふわりと美しい純銀の毛皮。触れれば柔らかで、何時も整えられているが、それでも手を出したくなる衝動はある。手には鼈甲と黄楊の櫛。装飾も心地良い肌触りも申し分ないであろうそれらの内、鼈甲の方をまず手にとって、天羽は純銀の毛皮を梳いた。

「天羽?」

 一瞬だけ吃驚した銀狐は、しかしすぐにその心地良さに眼を細める。柔らかに揺れる尾を櫛で撫でれば、美しい毛皮の艶がますます増した。九本もある尾は天羽によって触れられているものだけは大人しくしているが、他の八本はぱたりぱたりと忙しない。それは、彼が嬉しい時についついやってしまう癖だとすでに解っているので、天羽は僅かな笑みを唇に乗せると、しゅ、と毛皮に櫛を入れた。大きく長い尾ではあるが、彼は天羽に協力的らしく、緩やかに尾を動かすと、天羽の目の前にゆたりと差し出す。どうやら、天羽の手による櫛入れが随分お気に召したらしい。首筋に顔を寄せられる、柔らかい毛皮に天羽が眼を細めると、甘ったるい声が鼓膜へと吹き込まれる。

「ふふふ、これは良き誤算やの。天羽が手馴れとは知らなんだ」
「手馴れ、って別に普通だろ」
「これよりは天羽に毛梳きをして貰おうかのう。心地良しや」
「…今までは誰がやってたんだ?」
「それは女仙にやらせておったが?」

 灼銀の答えにまあそうだろうな、と納得する一方で、何だかあまり心地良くない感情が胸の内に沸き起こる。それは彼は幽蕾山霞晶洞の主であり、千年以上の年月を経て、神仙となった大狐。その人生は天羽より遙かに長く、そもそも女仙たちに傅かれるのだって当然だ。だが、当然のことながら天羽は天羽と出会った瞬間からの灼銀しか知らぬし、何となく勝手な思い込みで彼はそう易々と人の手に自分を触れさせることがないように思っていたから。正直に言えば、自分は特別だと思っていたから。何というか。そう。たぶん、天羽は今、嫉妬している。

「天羽、」

 やんわりと呼ばれる声に物思いに耽っていた天羽は思わず顔を上げてしまった。すると、間近にあった彼の顔が、笑う。獣の顔ではあるが、確かに笑った。しかもそれは彼が少しだけ意地の悪いことを言う時の、皮肉っぽい微笑。天羽の考えを全て見透かしてしまうかのようなその瞳に射抜かれては、もうどうすることも出来ない。露骨な沈黙が全てを物語っていたのだろう。天羽、ともう一度呼んだ声と共に長い鼻先が伸びてきて、真っ赤な舌がぺろりと天羽の唇を舐める。それだけで、天羽はまるで心臓も熱も自分ではどうにも出来なくなってしまう。己の特に見られたくはない感情を見抜かれ、その上窘めるような、愛しいような口付けを落とされて、僅かな矜持を奮い起こされた天羽は止めてくれという懇願も込めて、かの銀狐を睨みつけたのだが、真っ赤に熟れた顔でそんなことしても全く攻撃力はない。灼銀は愛しいものを見るようにその真紅の瞳を柔らかに細め、天羽、ともう一度鳴く。嗚呼、もうその声が、愛しいとそのまま告げるかのような声が、天羽にとっては、媚薬そのもの。

「天羽、妬いてくれたんかえ?」
「………、煩い」
「天羽。そのように美しき顔、我以外の誰にも見せてはならんよ?」

 皆、主という花の虜となってしまうからの。

 そう呟いて、彼がまた名を呼ぶ。身体と尾で拘束されて、口付けを落とされる。その合間に愛し、と落ちる声。何を言うのか。もしも天羽を「花」にしているとすれば、それは今この目の前にいる純銀の狐。なれば、天羽がこの伴侶以外にその「花」を見せることなど、万が一にもあるはずがないというのに。
 薄い皮膚に獣の鼻先が触れる。当たる牙も自分を傷つけるものではないと知っているから、愛しい以外の何ものでもない。嗚呼、もう本当に。自分はこの優しい獣に甘やかされて、甘やかされて、一体どうなってしまうというのだろう。愛しきは獣。純銀の毛皮を持つ九尾の狐は、恐らく今この蒼穹の下で誰よりも天羽を愛してくれている。そして、また天羽も。腕を伸ばして、彼の首筋を抱いて、口付けに答えるぐらいには、きっと。

「灼銀、」
「どうしたえ?」
「…何でもない」
「ふふ。そうか」

 風が吹く。
 梔子の甘い匂いが漂い始める前に、天羽の鼻腔は枯れることのない牡丹の香で満たされていた。


06/06/08

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