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白雪の夢見る頃に

 寒椿が咲く。季節は大寒。比較的温暖な地域に属する幽蕾山霞晶洞にも僅かながら雪が積もる朝のある時期だ。
 四季を計算しつくして整えられた庭は無論、春の華やかさを待って、静かに沈黙している草木が多いのだが、それでも、艶やかな緑の葉を茂らせて、紅色の花を広げる寒椿に始まり、白や薄紅の山茶花、香りの良い蝋梅に、ゆらゆらと冷たい風に揺れている水仙、それから丁寧に雪除けの藁傘で囲われた冬牡丹等。全くもって何をどう拘り抜いたら、ここまで見事な冬庭ができあがるのだろうかと感心するほどの出来栄え。天羽が生まれ育った妓楼も、豪奢の看板を掲げるだけあって、それなりに整えられた美しい庭園を有していたが、それでも冬は侘しい景色となったものだ。からからと落葉間近の薄茶色の葉が音を立てる度に何となく指先が冷え、春が待ち遠しい気分になったものだが、今目の前の景色を眺める限りは、この凛とした美を誇っているかのような冬の庭も悪くはないと思ってしまう。
 昼過ぎの日差しは温かい。葉を全て落としつつも、春の訪れを待ち望んでか、産毛に包まれた蕾を伸ばす白木蓮。そのすべらかな枝先に山鳩のつがいが降りてきて、お互いに低い声で鳴く。風はからりと乾いて冷たいが、厳しくはない。高く澄み切った蒼穹の下、ただ光の煌きが降り注ぐ。優しい日溜り。冬の庭に面して作られた広い縁台の上。天羽は目の前に真紅の瞳を静かに細めて寝そべる狐の、その触り心地の良い毛皮へと丁寧に櫛を入れた。
 「狐」とは言え、彼は無論ただの獣ではありはしない。艶やかな純銀を灯した美しい毛皮。瞳は鮮やかな真紅を秘め、額には妖力の高さを如実に示す紋様がやはり赤で刻まれている。つんと尖った鼻先に耳。伸びたひげや濡れた鼻などは、狐そのものだというのに、大きさは子牛ほどもあり、そして何よりも目を引くのが雄々しくも優雅に広がる九本の尾。元は一本だった野干の尾を、千年という歳月をかけて九本に裂くというそれは強靭な霊力を得た最高位の妖の証。そして、三世如何に広しと言えども、白面九尾の大狐と言えば、この彼一匹―名を銀紗羅真君と玉帝黄龍より賜った、幽蕾山霞晶洞が主にして、天羽の真実、《伴侶》である彼をおいて他にはいない。彼は天羽の手によって首筋の毛を梳かれ、心地良さそうに眼を細めている。時折、ぴくりと耳を動かしたり、感謝の意を示すかのようにゆっくり振られる尾など、仕草を見る限りは獣そのものだというのに、口を開けば宮廷で使われているような雅で穏やかな言の葉を操り、容易く天空を翔け、時に草木を操り、時に大地を隆起させ、人知及ばぬ力を行使する。大妖。白面九尾の大狐。彼の傍にあるようになってから、その名を耳にすることも多くなったし、解することも容易くなった。けれど。

「灼銀、尻尾。借してくれ」

 返事をするのも億劫なほど、夢うつつを彷徨っているのか、彼はただふうらりと長く太い尾を持ち上げると天羽の目の前に差し出した。無言の提供に僅かに苦笑すると、やはり同じように丁寧に櫛を入れていく。灼銀と、その真名を、天羽にだけ呼ぶことを許す大狐は機嫌が良さそうに、梳かれている以外の尾をゆっくりと小刻みに揺らす。一度、何となく彼の毛皮を梳いて以来、日溜りで行う毛繕いは天羽の役目となっている。無論、彼も獣の端くれ。自身の舌を使って毛並みを整えるぐらいはしてもよさそうなものだが、元々狐の毛繕いなどそう聞く話でもない上、数千の年月を妖として過ごした彼はめっきり人の手にかかる心地良さに慣れてしまったようで。今も何ら警戒心なく、天羽の手にした鼈甲の櫛で大人しくされるがままになっている。限界まで細くなった眼は細めているのか、それとも完全に閉じてしまっているのか解らない。ただ、揺れ続けている尾から彼がまだ眠っていないことは解った。
 尾の根元から尻尾の先まで優しく櫛を入れる。ただ毛皮に覆われてふさふさしているだけかに思われる尾も、その実は筋肉であり、少し力を込めて握れば、硬く逞しい感触がする。灼銀は―というか獣全般はそうなのかもしれないが、尾に(特に根元や先に)強い刺激を加えられるのを好まないようで、天羽が戯れに尾に触れる指に力を込めたりなどすると、後八本もある尾のどれかで、ぺしんと軽く手の甲を叩く。無論、それは痛くも何ともなく、怒られているような気にはならない。だから、天羽もつい面白がってますます尾に悪戯をけしかけたりすると、今度は少し不機嫌そうに彼は天羽の名を呼ぶのだ。

「天羽…我の尾で遊ぶなや」
「…悪い」

 お前の反応が露骨だから少し楽しい、などとからかい混じりに笑えば、灼銀は一瞬、真紅の瞳を此方に向けて見開いてから、静かに細める。それから何を思ったのか、ゆらりと風を起こして尾を立ち上げると、天羽の腰へと巻きつけた。何時もの親愛表現とはいえ、唐突に擦り寄られて天羽は眼を瞬く。すると、純銀の大狐は喉の奥で深く笑ってみせた。

「ふふ。後にも先にも我の尾で戯れようなどと言う輩は主しか居らぬよ、天羽」

 そう言ってまた笑う狐は天羽が言うのも何ではあるが、非常に幸福そうで―そう、幸せそうで、天羽もまた唇を綻ばせる。縁台に寝そべっているきらきらと輝いて美しい巨躯にゆっくり倒れこみ、頬をすり寄せると、柔らかい毛皮は、先程天羽が梳いたせいもあって、すべらかな上に陽光で温まって心地良い。息を吸い込めば、一緒にお天道様の匂いが、鼻から肺までをほこりと温めてくれるようだ。彼の毛皮を撫でながら、頬擦りを繰り返していると、ゆらりと尾が絡みつく。全く天羽は獣ではないのに、伴侶がそうであるから余計に思うのかもしれないが、この尾というのは実に便利なものだ。感情を表すのに彼らに言葉は必要ないのだ、と改めて思い知らされる。こうして、抱きしめるように擦り寄ってくるだけで。天羽は、何時だって彼に愛されている、と実感できるのだから。こうして、共にあるだけが幸福だと、心から。
 それは以前の天羽には想像もつかぬ話であったことだろう。誰かと共にいて心安らぐことなど、これまでの人生において、一度もなかった。何時だって天羽を満たしてくれるのは一人きりの、もしくは書と共にある時間だけで、万が一、今後天羽が妻を娶るようなことがあったとしても、それはそんな充足の時間をもたらしはしないだろうと。漠然と。しかし、半ば確信にも似た思いを抱いていたのだから。勿論、その思いは彼と出会うことで全く覆される結果に、なってしまったのだけれど。けれど、それは別段不愉快な予想違いではない。むしろ、天羽は今と違う未来を思うときこそ、ぞっと心の底から冷えるような心地がする。無論、生まれ育った妓楼や父親に何ら未練がないわけではない。けれども、あの王都の雑踏の中、白粉と紅に満たされた屋敷に一生閉じこもったままだったのかと思うと。

「―天羽?」

 思考の海から引き戻される。見れば、毛皮に埋もれたまま、眠ってしまったとでも思ったのか、灼銀が真紅の瞳で、じっと此方を見ていた。身を起こそうとすれば、その後頭部を一本の尾が緩く抑える。眠ってしまっても構わぬえ?と、心地良い声が鼓膜を撫でる。鼻先に黄色の蝋梅の香りを嗅ぎ取りながら、天羽はゆるりとまた銀色に沈む。そう、甘やかされると素直に従ってしまいたくなる。ただでさえ日頃からくすぐったくなるぐらいに世話を焼かれて、その心地良さに酔ってしまいそうなのに。しかし、そう頭では考えていても、優しい眠気はゆっくりと体を侵食する。じわりじわりと日溜りと灼銀の温度にそのまま溶けてしまいそうな眠りは、酷く、抗いがたい。瞼の裏が重たい。子供のように彼の毛皮の先を掴めば、低く笑った狐の尾がまるで布団のように天羽の上に覆いかぶさった。その内、一本が天羽の頬を撫で、顔にかかった髪を払ってくれる。まるで母親のように、と言えば彼は呆れるかもしれないが。

「…灼銀…、」
「何や?」
「なにか…話、してくれ…」
「はなし?」

 唐突な思いつきに、寝物語かえ?と大狐は笑う。何でも良いからとせがめば、彼はしばらく考え込むように遠く見ていたが、やがて、真紅の瞳を天羽に寄越すと、優しく鼻先で天羽の髪を慈しみながら、よく通る美しい声で話し出した。

「もう随分と昔の話になるがの。…嗚呼、本当に昔の話や…これを誰かに話すのも…何百年ぶりのことになるか…。
 我がまだ、ただ野を駆けるだけしか能のない狐―野干だった時の話ぞ。…聴きたいかえ?」

 思わぬ言葉に天羽はぱちりと眼を見開いた。驚きと期待と好奇心と、それから恐らく不安のような感情で一瞬混乱した天羽は、それでも真紅の瞳と視線が合うと、聴きたい、と声が自然と口から飛び出た。彼の昔話を、彼の口から聴くのは、これが初めてかもしれなかった。無論、天羽とて彼のこれまでの途方もない人生が気にならなかった訳ではない。だが、妖として神仙として天羽には想像もつかぬような生を送ってきた彼の生き様を容易く訪ねるのは、何だか憚られて、口を噤んでいたのだ。それに、天羽にとって最も大事なことは今の彼が、目の前にいる灼銀が天羽の伴侶であり、天羽を心の底から愛してくれているということであって、過去の話など二の次だと思っていたせいもある。勿論、その思いは今でも変わらない。けれど、愛しい伴侶のこと。知らないことが多いよりも、知っていることが多いほうが、それは、それで嬉しい。だから、天羽は密かに胸を高鳴らせながら、彼の宝玉にも似た深い紅色の瞳をじっと見上げた。

「ふふ、天羽が期待しているような面白い話ではないえ?」
「それでも良い。聴きたい」
「…そうか…そうやの。我ら狐の一族は元は単なる野の獣として生まれる。人語解さず、神通力を持たず。ただ、母の腹から無邪気な仔として生まれてくる。…天羽は一人息子だったかの?」

 頷けば、彼は眼を細めて言う。

「我は四匹の弟妹と共に育っての。あの頃は自我を持たぬ只の獣だったが…。それでも野の草の匂いや土の匂い、弟妹たちと走り回るのが無性に楽しかった記憶だけは残っておる。母の傍で日がな一日戯れあい、何も考えることはなかったが、何も考える必要はなかった。我は恐らくその時、幸福だったのであろうな。妖や神仙や《灼銀》としてではなく、一匹の獣として」

 彼は言って、遠くを見た。何処か、此処ではない、何処かを。

「あれは何時だったか…夏も近付いて、梔子の花が咲く頃だったかの。我らの巣があった山は比較的人里から近かったが、それでも人と獣は一定の距離を保っていた。我らは人里に近付かず、人は我らに近付かなかった。しかし、その年、」

 真紅が。

「山に、火が点けられた」

 灯る。

「理由は知らぬ。だが、山は瞬く間に燃え上がり、多くの樹が焼け、多くの獣が死に、そして我の親兄弟も死んだ。火を恐れ、巣穴に閉じこもったまま、蒸し焼かれての。我は偶然、巣から離れた小川まで遠出しておって事なきを得たが。嗚呼…それでも、あの時は…恨んだの…。心から…この世にある全てを…」

 その場の光景を目の当たりにしたのは灼銀だけだというのに、焦げ臭く肉の焼ける匂いが鼻に届いた気がして、天羽はぶるりと体を震わせた。彼の瞳が鋭く強く、それでいて仄暗く赤い光を宿していたせいもあるだろう。彼は時折、こういう瞳を見せる。無論、滅多にあることではないし、恐れる必要もないとは解っているけれども。それでも、本能的にかの妖の前に平伏したくなるような、絶対的な恐怖の危険信号を煽るような、凶悪な瞳と、光。天羽が僅かに怯えたのが解ったのか、灼銀はすぐに瞳を元の優しい色合いに戻すと、天羽に鼻先をすり寄せてきた。すりすりと寄せられる銀色の毛皮の温度に、改めて自分が緊張していたことに気がついた天羽は、肩の力をゆっくり抜く。まるで重たい重石が漸く取り払われたかのように、全身の感覚が鋭敏に取り戻される。これは、彼の重圧のせいだったのか。

「すまぬの、天羽。怖がらせてしもうたか」
「いや…大丈夫だ」

 灼銀は天羽には出会った当初から徹頭徹尾穏やかな物腰で接している。それは元来の彼の気性なのだと思うし、偽の姿とは言わないが、それでも稀にこうして見せる大妖と言うに相応しい殺気にも似た気迫には鬼気迫るものがあり、それもまた、彼の一面なのだと思う。玉帝黄龍に仕える神仙の一人である銀紗羅真君も、かつて四王国の全てを乱した、白面九尾の大妖も、彼の姿の一つ。その、どれかが灼銀なのではない。その、どれもが灼銀なのだ。
 だから、天羽は詫びるように擦り寄ってくる灼銀に同じように頬を擦り付ける。それがまるで今できる最高の、親愛表現だと、言わんばかりに。日溜りの中。温かい温度に徐々に灼熱の幻影が遠ざかっている。血腥い匂いは此処にはない。否、ない訳ではないが、今静かに秘められてしまった。目の前にいる伴侶の中に。それさえ愛しく抱きしめるように、天羽はゆっくりと腕を伸ばして、彼の首へと抱きつく。両腕できつく抱けば、天羽、と少し困惑した声が降り注いだ。

「………あのような姿を見せれば、大抵の人も妖も神仙も我を恐れるのだがの…。
 媚び諂うか、近寄らぬか、どちらかえ?」
「…それは、俺が変わってると言いたいのか?」
「いや。………いや、やはり変わっておるのかの。それも、多少ではなく殊更変わっておる。天羽は変わり者やの」

 天羽の言葉に大真面目な口調できっぱりと告げる灼銀に、彼の首筋からずり落ちそうになる。よりにもよって、自分の伴侶を変わってる変わってると連呼する狐に何か反論しようとして顔を上げたところで、しかし、思わず。

 息を止めた。

 彼の、灼銀の射抜くような真紅の瞳が痺れそうなほど甘い色を宿して、目の前にある。柔らかい色。綺麗な色。柘榴石にも似た甘やかな瞳が、天羽を見て、ゆっくりと細められる。愛しそうに、愛しそうに、愛し―そうに。口を開けば並んだ牙が見えるが、一つさえ恐ろしくはない。ただ、喉の奥から溢れるように紡がれる声が心地良い。とても。

「何しろ、このような我でも主は良いと言ってくれる。伴侶になると言うて、共に昇仙してくれたばかりか、契りまで交わしてくれた。元は名もなき野干の身であり、おまけに妖である我と、な」
「………灼銀、」
「我は三世一の果報者やの。主を伴侶とし、こうして共にあれる。気の長くなるようなこれまでの生涯よりも、我は今この一時が最上に幸福だと言い切れるえ?天羽と共にある、今の方が、の」

 主はどうえ?と彼が訊く。考える必要もないその問いに、けれど胸がいっぱいになってしまった天羽は巧く答えられない。たくさんの、伝えたいことがある。こうして、灼銀と共にある幸せ、出会えた幸運、慈しみ合える奇跡。そのどれもが、大切で大切で伝えたいのに、巧く言葉にはならない。だから、ただ、天羽は腕を伸ばして彼を抱きしめる。その温もりに埋もれながら、両腕で伝えきれない幸福を伝える。ただ、たくさんの、愛しい想いを。その全てで。

「俺も、灼銀と一緒で良かった」
「…そうえ?」
「ああ…今が一番幸せだ」

 貴方と共に歩むこの時を。
 ただ、幸福と思える今を。
 優しく抱いて生きる日々を。

「主に出会うまでに我には途方もない時があったが、」

 この、美しい伴侶と共に。

「どうか、これより先は寒椿に寄り添う雪のように」

 散るその一時まで、どうか。

「…ああ、勿論」

 傍に寄り添っていられたのならば、
 それは、私にとって、至上の、幸福。


07/02/05

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