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泡沫の童遊び

 神仙には風呂に入るという習慣がない。
 正確には風呂に入る必要がないと言うべきだろうか。そもそも神仙とは生物の理を超越した存在であり、その気になれば食事も睡眠も何ら摂ることなく、数十年数百年と命を繋いでいくことができる。野に咲く花々が身の内から不要な汚れを出す事など一切ないように、その身は清廉を極め、ほとんど自然と同列の存在としてそこにあるのだ。
 最も特別な祭礼の際の儀式として「湯浴み」といったものはあるし、労働の後の身体の汚れを落とす為に湯を使うことはある。けれど、あくまでそれは身体を「洗浄」することが目的なのであって、人間のいう「風呂に入る」とは一線を画すのではないか、と天羽は常々思っている。

 ぴちょん。

 天井に立ち昇った湯気が寄り集まって水滴となり、湯殿の中へと再び戻る。六畳ほどのこじんまりした浴室は木造りで、年季の入った梁が湿気た色合いを滲ませていたが、痛んだ様子はなく丈夫そのものだった。行灯の火は湯気を避けるように入り口近くに置かれ、淡い光で白を強く滲ませている。もうもうと湯殿から立ち昇る湯気は逃げ場所を求めて天井へとぶつかり雫となり、或いは高い位置にある格子窓から夜の空へと逃げていく。白く煙った浴室は何処までも続く霧中のようで、天羽は湯殿にぶくぶくと沈みながら自分でもよく解らない安心感を覚えて殊更足先の力を抜いた。
 紅鳶色の髪が湯の中で広がる。神仙たちは風呂に入る習慣がないと先程言ったばかりだが、未だ昇仙して日の浅い天羽は入浴を好んでいた。
 元々、天羽の棲んでいた斉の国は湿気の多い盆地だ。夏ともなれば異常なほど蒸し暑くなり、汗をかかずにはいられないし、冬は冬で足の先からじわりと寒さが忍び寄る。更に近くに巨大な河川があり、地下水が豊富で湯を確保するのに然程手間がかからなかったことも要因の一つだろう。斉の国では多くの人間が風呂に入ることを習慣にしていた。
 特に天羽の生まれた妓楼は多くの女たちを抱え、彼女らが身を整えるのに湯殿は必須であった。始終湯気の立ち昇る広い浴場は子供の天羽にとっては格好の遊び場で、よく風呂桶を引っくり返したり湯殿で泳ぎまわったりして年配の世話役女に叱られたものだ。眉間と目尻に強い皺を刻んだその世話役は幼い天羽にとっては天敵みたいなものだった。彼女は兎角子供に対して風当たりが厳しく、たとえ主人の息子であろうと容赦などしなかった。しばしば悪さを仕出かし脳天に拳骨を食らって泣きじゃくる天羽に、若い遊女たちが饅頭だの砂糖だのをやってあれやこれやと甘やかし、そのせいで更に世話役の機嫌が降下。次に天羽が悪さをした際により一層強い拳骨を食らう羽目になる、という悪循環が当時は成立していた。
 今思えば自分も学習すれば良かったのだろうけれど。時節的に恐らくちょうど母が病で伏せっていた頃だから、幼心に寂しくて仕方がなかったのだろう。父は妓楼の経営が漸く軌道に乗ったせいで忙しく、母は毎日毎日布団の中で蒼白い顔をして寝ているばかり。医者には近付いてはいけないと釘を刺されていたし、天羽は退屈と寂しさを何とか紛らわせようと己なりに苦心していたのだ。今思い返してもあの時自分の周囲にいたのは世話役の恐ろしい顔と数多の遊女たちのおぼろげな表情だけ―、

 いや。

 一度だけ。一度だけだが、父と風呂に入ったことがなかっただろうか。
 広い湯殿。もうもうと立ち昇る湯気の中、天羽を膝の上に乗せて手拭を水面に広げる父。それから、そおっと手拭を周囲から寄せ集めて湯の中に沈める。天羽が幼い瞳でじっとそれを見つめる中、父は沈めた手拭を勢い良くぎゅっと握った。途端、たくさんの泡が湯の中から一斉に立ち昇り、思わず感嘆の声をあげたことを天羽は憶えて―そうだ、今の今まで忘れていた。確かにあの時、天羽はその遊びを父から教わったのだ。何回も何回も父に強請って泡を作ってもらった。細かい泡が幾つも幾つも湯の中から現れるのが可笑しくて、不思議で何時まで経っても飽きなかったものだ。

 どうして忘れていたのだろうか。否、それよりもどうして今日に限って思い出したのか。

 湯殿に沈みながらぼんやりと天羽は考える。不思議と昇仙してから以前の記憶が揺り起こされることが多くなっていた。それは天羽が現世から乖離し始めているからなのだろうか。此方の世に身を置く月日が長くなるにつれ、あちらの世の出来事が夢幻のようになっていく。自らが下した決断に後悔はしていないけれど、それは何処となく寂寥感を伴う感覚だった。「あちら」は希薄に、「こちら」は濃密に。そうして全てが入れ替わった時、天羽は今のままの天羽でいられるのだろうか。
 否、その問いはある種の無意味無意義な問答であり、そしてたとえ答えが天羽の望まぬものだったとしても。天羽は此処に存在し続けるだろう。それが、彼の「答え」なのだから。

 考えごとと一緒に細い息を吐き出して、天羽は手足を伸ばす。その拍子に湯殿の縁に置いていた手拭に眼が留まり、ふと思いついた。

 子供の遊び。父から子へ。何の気なしに受け継がれた他愛のない児戯。天羽は知らず口元に笑みを浮かべながら、手拭を水面へ広げた。ゆっくりと空気を逃がさぬように周囲から包み、湯の中へと沈め、そうして掌に力を込める。しゅわわわと細かい泡が幾つも水面に浮かび上がり、小さな円を描いて消えた。本当にそれだけ。それだけなのに、何故、こうも何回と繰り返してしまいたくなるものなのだろうか。
 天羽はまるで子供の頃に戻ったかのように手先で幾度も同じ仕草を繰り返す。広げて、集めて、沈めて、力を込める。泡は幾度も作り出され、一瞬の内に消えていく。ぴちょんぴちょんという水滴の音に混じって広がる泡沫の消え行く音。白く煙る浴室の中、淡い光の中で何度それを繰り返した時か。

 ―あもう―、天羽―、

 遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、ふと天羽は手元を止めた。聴きなれた声がゆっくりと近づいて来る。灼銀?と独り言のような呟きをしっかり拾ったのか、それとも灯の漏れる浴室に気が付いたのか、さくさくと砂利を踏む足音が間近で止まったかと思うと高い格子窓からひょこりと真紅の瞳が覗いた。珍しく―獣の姿ではない、己の伴侶が柔和な表情を縞々模様にさせて、そこにいた。

「ああ、此処におったのか」
「灼銀?どうしたんだ?」

 闇の中から顔を覗かせた天羽の伴侶は真紅の瞳を緩やかに細めてみせる。湯気越しではっきりとは解らないがどうやら機嫌が良いようだ。常は獣の姿を好んでとる白面九尾の神仙がわざわざ人の姿をしているのと何か関係があるのだろうか。

「久方ぶりに一杯やろうと思うての。良い酒が入ったので燗をつけさせておる」

 その言葉に思わず天羽の頬も緩んだ。天羽は生まれ育ちが妓楼ということもあり、酒には強い。おまけに食にも多少煩いから酒飲みのこととなると、思いがけず灼銀と話が合った。彼は最初天羽のことを実際より幼くみている節があって(まあ相手は齢何千年の神仙なのだから当たり前かもしれないが)、天羽が酒に強いことが意外だったようだが、今では折をみて共に酌み交わすようになった。灼銀の趣味と天羽の好みで整えられた庭を眺めながら飲む酒はこれ以上ないほどで、特に今宵は良い月も出ていることだろうし、正にささやかな夫婦の酒宴にはもってこいだろう。
 良いな、と目元を細めた天羽に、灼銀も同意するように僅かに首肯した。

「栗甘露と銀杏も用意したえ。
 湯から上がったらよう身体を拭いて風邪をひかぬよう…」
「灼銀、一言はまだしも二言余計だ」

 眼を眇めてみせた天羽に伴侶は声もなく含んで笑う。どうやら態とだったようだ。
 こういうところが灼銀の豊かな機知でもあり、それでいて天羽には敵わないと実感させられる部分でもある。元々の両者の性質の違いなのか、それとも生きてきた年齢の差なのか。何となく前者なような気がしないでもないが、とりあえず天羽は不貞腐れるように手拭を湯に沈めるとぶくぶくと泡を作った。どうせ自分はまだ子供だ、といったような半ば自棄なあてつけだったのだが、しかし、予想に反して灼銀の揶揄するような笑顔は途端に消え去った。
 天羽が困惑したのも無理はない。格子窓の向こうの整った顔は恐らく何時もの獣のままであったら、確実に耳はぴんと立ち上がり、尾はゆらゆらと揺れて、好奇心全開の様相を呈したはずなのだから。幸か不幸か人の姿を保っていた彼はその目をじっと泡の出た先に向けたまま静止しただけだったが、割と長い時を伴侶と過ごしてきた天羽には彼の言わんとする言葉が手に取るように解った。

 ―なにそれ?

 純粋な好奇心が手拭に向けられている。ひょっとしてこの遊びを知らないのだろうか。否、彼の本性は野の狐だ。よく考えれば知らなくて当たり前である。真紅の視線を受けながら、天羽は無言のまま手拭を広げると湯に沈めた。そして掌に力を込めると、再び細かな泡が多量に発生し水面を沸き立たせる。しゅわわわというその音に今度こそ耐え切れなかったのか、格子窓の向こうで一瞬整った顔が消えた。天羽が声をあげる間もなく。しゅるると煙のようになった白銀が格子の隙間から浴室の中へと入り込む。それは煙から濡れた黒い鼻から伸びたひげと鼻面を作り、真赤な瞳に額に刻まれた紋様、ぴんと立った三角形の耳を形取り、大きな前足大きな後ろ足、そして優雅に広がる九本の尾をぶわりと掲げ、気が付けば湯殿の縁にすたっと白面九尾の狐が着地していた。呆気にとられる天羽の前で爛々と眼を輝かせながら、狐が泡を催促する。こうなってしまってはもう目の前にいるのは天羽の伴侶ではなく、ただの好奇心の強い狐である。
 仕方なく天羽は三度手拭を湯に沈めると泡を水面に作り出す。しゅわしゅわと一瞬で消えていく泡の繰り返し。それを幼い時分の天羽と同じように灼銀が見つめている。狐と人と。異なる種の同じ道楽。それが可笑しくて、天羽は思わず口元を綻ばせた。

 現世も夢世も恐らくきっと変わりはしない。天羽が此方にいるのを選んだだけで、この伴侶の傍にあることを望んだだけで。天羽は、天羽のままだ。この愛すべき獣を伴侶に選んだ誇らしい自分。此処にあれる喜びを理解することのできる幸福な自分。それはこんなのにも胸を満たす。愛しい想い、ただそれだけで。

「天羽は芸達者だのう。何ゆえただの布から泡沫を生じさせられるのかえ?」
「ただの子供の遊びだ…大体、お前はもっと凄いことができるだろう?」

 真剣な表情で訊いた獣に笑いを堪えながら天羽は言う。童遊びに風呂道楽。続いていく日々。
 その明日が確かであることを目の前にいる彼の存在で実感しながら。天を仰いで尾を振る狐が風呂底を引っくり返すような巨大な泡を生じさせるまで、天羽はゆらゆらと笑い続けていた。


08/02/10

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