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月瑯々

 大きな望月が空にぽっかりと浮かんでいる。
 紺色の夜空に砂金のように散りばめられた星と、並々ならぬ存在感を宿して浮かぶまん丸の月。今宵は満月。冴え冴えと射るような白金の光は常日頃よりも明るく、薄い雲から天羽の眼前に広がる山々の輪郭までも照らし出している。光を浴びる遠くの峰は蒼白くぼんやりと光って見えて、それはそれは美しい。徐々に身を攫うような冷たい風が、気まぐれに吹くようになってきた初秋。天羽は己の為に整えられた庭を前に誂えられた縁台で、ぷらりとつま先を揺らしながら、月見の風情を味わっていた。絹鼠に薄墨で松を入れた落ち着いた色彩の着物がよく似合う。鮮やかではないが、温かみのある紅鳶色の髪に蜜色の瞳。整った顔立ちはしゃらりしゃらりと月光を浴びて、儚げな印象を強めていた。掌で包み込んでいるのは黒地にどうやら叢雲を模ったらしい白を入れた平茶碗で、中身は温かい上質な抹茶。おかげで少々肌寒い縁台でも、天羽は羽織を着込まずにゆっくりと月を眺めていられた。無論、寒ければすぐに室内にお入り下さい、という藍春の言葉を忘れた訳ではなかったのだが、しかし、このように美しい月夜、早々何度もお目にかかれるものではない。否、それとも神仙の住まうこの《夢世》では、珍しくも何ともないのだろうか。
 銀色の輝きに魅せられて、昇仙したのは今年の皐月。あれより幾つもの夜が来て、昼が過ぎ、朝が来たが、未だ天羽の実感は薄い。日々は穏やかに、そう《現し世》に居た折よりも更にゆっくりと流れていくし、生物が食べられない、と言った変化は些細なことで、天羽の身に確実に変化を与えたとは言い難かった。ひょっとしたら、全ては夢なのではないかと時折思う。たとえば一人で寝入り、何となく目覚めてしまった真夜中など。冷たい空気の中で、ぼんやりと眼を擦れば、暗闇の中で覚束ない視界が広がり、恐ろしい夢を見た訳でもないのに、何故か背筋が寒くなる。なるべく平静を装って布団を引き寄せ、眠ろうとするけれど、瞼の裏に幾つも幾つも、未詳の光が広がって、どうしても眠れない時。ふと気付くと、密やかな足音が廊下の向こうから静かにやって来るの気付き、やがて行灯の火が障子にはっきりと女の影を作ると―、

 ―まあ、天羽?眠れないの?

 莫迦な。何年前の夢を見ているというのだ。天羽の母親は天羽が七つの時に死んだ。よく老人の死んだ流行病で、元々あまり身体の強くなかった母は、呆気なく病に憑かれてしまった。そう言えばあの時、秋の月の頃から、母は頻繁に咳を繰り返していたような気がする。そのせいだろうか。こんなに美しい月を見ながら妙なことを思い出すのは。それとも最早《現し世》に未練などない、と口で幾ら言ったとて、心では焦がれているのだろうか。あの鈴の音。銅屋の軒先に吊るされた鋼の音色に女たちの微笑の声、紅の匂い、白粉の色。そんなもの全てに、憧憬を感じる日がこようとは。

「……思いも寄らなかっただろうな」

 昔日の己ならば。あの屋敷で、まるで押し込められた鳥のような倦怠感を感じていた天羽であるならば。その日その日を蜃気楼の中を進むかのように茫洋と過ごし、月を眺めることも忘れ、やがては書すら紐解かなくなり。そうして、何時の日か、天羽は銅屋の主人となっていたのだろうか。父と同じように何人もの女を抱き、品定めし、数多の酒を飲み干し、数多の美食を尽くし、呆れるほどの豪奢を嗜む日々を、送っていたのだろうか。答えは無論、ない。現実に―そう《現実に》、天羽は此処で、この場所で、こうして月を見上げているのだから。幽蕾山霞晶洞。治める神仙の名は銀紗羅真君。白面九尾の大狐にして真名を灼銀。彼は天羽の生涯の伴侶であり、また、天羽も彼の生涯の伴侶としてその名を持つ。銀紗羅真君の奥方、羽天夫人と。それは未だくすぐったく天羽の心を、浮き立たせるものなのだけれど。

「月を見ているのかえ?」

 ふわりと低く琴線を弾いたような声が急に至近距離で聞こえて、思わず天羽は肩を跳ねさせた。だが、聴き慣れた声に一瞬で警戒心は薄れ、案の定、鮮やかな銀色の豊かな毛皮がするりと天羽の隣へと滑り込んでくる。額に刻まれた赤の文様。瞳もまるで柘榴石のように鮮やかな真紅で長く伸びた鼻面にぴんと立ち上がった耳。造りだけ見れば野の狐と変わりないというのに、その大きさたるや子牛ほどもあり、更にあまりに優雅に広がる尾は九本。人語を操る様はとてもではないが、けだものとは呼びづらく、彼に与えられた名は銀紗羅真君。真名を灼銀。玉帝黄龍の下に名を連ねる、神仙の一人。そして、天羽の正真正銘の、伴侶だ。

「灼銀…気配を消して現れるな。驚くだろう」
「ふふっ、主のその顔が見とうて態となしておる…と言えば、主は我を叱るかの?」

 一時、灼銀が耳に心地良い声で言った言葉の意味が解らなかった天羽は、間抜けにも口をぽかんと開いてしまったが。しばらくして、その意を漸く噛み砕くと、面白いぐらいに頬から耳までを真っ赤に染め上げた。何を。何を言い出すのかと思えば、全く、全くもってこの伴侶は天羽を年頃の乙女か何かと勘違いしているのだ。歯の浮くような台詞を平気で言い、天羽の全身を褒め称えるのに一片の言葉も惜しまない。しかし、そう反論するには、天羽の顔は熱を集めすぎていた。案の定、嬉しそうに眼を細めた狐はすりすりとその巨躯を寄せてくる。温かい毛皮に全身を包まれながら、天羽はせめてもの、最後の抵抗にふいと視線を逸らせてみせた。たぶん、今更の抵抗なのだろうが。説得力は皆無だろうが。

「何を…こんな顔見て何が面白いんだ」
「面白いのではなく、可愛らしいと思うておるえ?
 突然の気配に驚いた顔も、その後に我に気付いて穏やかに緩む顔も、主は美しゅうて愛らしいの、天羽」
「………頼むから………、」
「ん?」
「…頼む、から、やめてくれ…」

 もう限界だと言わんばかりに片手で顔を覆った天羽に、それでも灼銀は機嫌が良さそうに笑うばかりだ。彼の眼に己がどう映っているかは知らないが、兎も角、こうして誉め殺しにされるのだけは本当に慣れないし、こそばゆい。人並み以上に整った顔立ちをしていた天羽は、その容姿こそ褒め称えられることはあったが、こうしてその所作一つ一つ、あることにつけて甘ったるい口調で囁かれるなんて。それも、自分ではあまり変わることなく、我ながら乏しいと思っている、その表情についてまで。彼は一々、緩やかな笑みを湛えた口調で愛でる。灼銀の声にからかいの色は勿論なく、言葉の全てが真実だと解るからこそ、天羽は常に落ち着かないのだ。嬉しくない訳ではない。嬉しくない、訳がないではないか。全てを捨てて、一緒になると決めた伴侶にこうして言葉と身体で愛されて、幸福でない者が何処にいよう。

「………天羽、」

 急に灼銀が真剣な低い声で天羽を呼んだ。真っ赤な顔を隠すように視線を背けていた天羽は、その声で我に帰る。見れば、彼はぴったりと天羽に寄り添い、その額をぐいと天羽の肩に押し付けた。酷く甘えた仕草に、一体どうしたことかと、天羽がその頭を撫でれば、彼は喉の奥で低く鳴いたようだった。灼銀?、と名を呼べば、天羽、と名が帰る。鮮やか過ぎるくらい鮮やかな赤の瞳が、ちろりと燃え盛る炎のような熱を宿して此方を見た。射抜くように。その視線を強さに思わず天羽は心臓を跳ね上げる。赤は妖の色。彼の身に普段は潜んでいる赤い闇を、密かに垣間見た気がして指先に震えが走った。恐れなどではない。それは、言わば、歓喜、のようなもの。

「帰りたい、かえ?」
「…え?」
「ならぬよ、天羽。最早、主を帰す事は我には出来ぬ。もしも、主が我のもとより去ろうとするなれば、この身、再び妖に変えようて、三世悉く焼き払おうぞ。主が帰る処など、何処にもなくなってしまうように」



 我の傍以外に。



 そう、そう言って。
 薄っすらどころか、牙を見せて笑う獣は。
 正に《大妖》と呼ぶに相応しく。
 嗚呼、という震える吐息と共に。
 天羽は。

 彼の鼻先に口付けた。

「あ、天羽?」

 何故か酷く驚いている灼銀に構わず、天羽は片手を彼の顎に添えると、舌を伸ばす。その光景が甘美に映ったかどうかは、天羽には解らないが、薄っすらと誘われるように口を開いた灼銀の、その獣の中にゆっくりと舌を忍び込ませた。ずらりと並んだ牙が冷たく硬く舌先に触れ、それだけで痺れそうな快楽に陥りながらも、天羽は彼の巨大な舌を探り当てる。舌先を潰して触れ合えば、待ち構えていたかのように、ゆらりと熱が起こり。くちゃ、と唾液の音も生々しく、静かに一人と一匹の舌が絡まり合う。獣の牙の檻の中。密やかな逢瀬のように、ゆっくりと、けれど熱っぽい睦み合い。ちゅ、ちゅく、と存分に唾液を交換すれば、自然とあがる吐息の歩調すら早まって。やがて両者の顎が疲れる頃に、漸く満足したように合わさった視線が終わりを告げ。ぬるりと舌が解ければ、その間には銀色が艶めかしく糸を引いた。

「…天羽?」

 濡れた唇を一舐めする天羽に、困惑したような獣の声がかかる。それはそうだろう。はっきり言って天羽からの接吻など、それこそ十夜数えて一あるかないか。滅多にない行為に、その上、あんな言葉の後で、無言で施されたことに。歓喜よりは驚愕が勝って、尻尾をふうらりふうらりと落ち着かなく動かしている狐に天羽はやはり静かに微笑む。その触り心地の良い銀を撫でてやりながら、胸元のふさりとした毛皮に額を寄せれば、益々困惑した声が落ちる。

「天羽?怒ってはいないのかえ?」
「怒る?どうしてだ?」

 どうやら自分でも過激な台詞を吐いた事の自覚があったらしい、狐は天羽の言葉に一層不思議そうに尻尾を揺らした。その様子を眼を細めて見遣りながら、天羽は静かに唇を開く。彼の体温に身を寄せながら。視界いっぱいを銀色にしながら。

「俺は灼銀の傍を離れない。だから、お前が三世を焼き払うことなんて絶対にない。それに―、」

 それに。

「たとえ、灼銀がもう一度妖に戻っても、俺はお前の傍に居るよ」

 そう、たとえ、彼が三世の王宮を恐怖に震え上がらせた妖に戻ろうとも。たとえ、その美しい毛皮を血に染めようとも。変わりない。関係ない。そんな《些細なこと》よりも、もっと深く深く、すでに天羽は灼銀を、この美しくも優しくて、甘えたがりで、それでいて苛烈な獣を、愛してしまっているのだから。たとえ、彼が妖に成ることで、どんなにこの身傷つこうとも、恐れるべきことは何もない。本当に恐れるのは、彼の傍から離れてしまうこと。この温かいぬくもりから遠ざかってしまうこと。そうなれば、もう天羽は平常でいられる自信はない。焦がれて焦がれて、ひょっとしたら狂ってしまうかもしれない。それほどに。嗚呼、全くこれほどの恋心、三世を隈なく歩き回り、どんな知識を得ようとも、伝える術もないほどに。

「…嗚呼…」

 赤い瞳はしばらく呆然としたままだったが、やがて漸く全てを飲み下すことが出来たのだろう。徐々に瞳には歓喜が満ち、抑えきれない喜びを示すように尾が大きくゆっくりと振られる。天羽、と甘い声が一度だけ呼び、それに答えれば。

「天羽、…天羽…っ」

 呼ばれた名は溢れんばかりの情愛を帯び、獣は名を呼ぶだけでは飽き足らず、天羽に突進する勢いで擦り寄ってくる。額に、前脚に、ぐいぐいと押されて、天羽はよろりと重心を崩す。あ、と思った時にはもう遅い。左手で支えていただけだった茶碗はころりと掌から転げ落ち、天羽自身は縁台へといとも簡単に転がされる。かしゃんっ、と軽い音。見えはしない。見えはしない、が、繊細な叢雲の茶碗は、恐らく大理石の足台の上へと無残に、ばらばらというか粉々というか、恐らくたぶん、見えはしないだけに惨状が、恐いが。もう使い物にはならないぐらいの、破損の様子であることは簡単に察しがついた。さあっと天羽の顔から一気に血の気が引く。

「し、灼銀!茶碗が、落ちた、っ!」
「ああ…何をそんな些細なこと…。主の指一つ傷つけておらねばそれで良い」
「そ、そういう問題かっ!高価なんじゃないのか、あれ、って、こ、こら、何処舐め、ん、んん!」

 引っくり返った視界、ばさばさと振られる尻尾の向こう側には、まん丸の望月。全てを明るみへと導き出す白光が、今だけは少し恨めしい。明日、茶碗が砕けた経緯を一体何と藍春に説明すれば宜しいというのか。心中ではぐるぐると様々な問題が忙しなく巡れど、しかし、全身に降り注ぐ口付けに徐々に溺れていく己に。月の宮殿に住むという桂の君が、今は眼を覆っていることを願って。天羽はゆっくりと獣の背へと腕を伸ばした。


06/11/07

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