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巡り紅葉の刻を

 白い半紙を小鳥が留まった青銅の文鎮で押さえると、天羽は真っ直ぐに背筋を伸ばし、真剣な面持ちで筆を走らせた。留紺の着流しに絞り染めの羽織を肩から掛けるに留め、文机の上には硯と墨と共に古ぼけた本が一冊。恐らく長い間湿気の溜まる書庫の隅にあったせいだろう。所々茶色い染みのできた本は薬草の効能について記した古いものだが、このまま放置しておけば恐らく文面が読み取れなくなるほど痛んでしまうに違いない。
 霞晶洞の書庫にある本はその概ねが保存状態が良く、現在も適切な保存方法がとられているのだが、それでも時間の経過に形あるものが風化を免れることはできない。どんな王宮でも神仙の宮でも、古い本から文面を写し取る写本は必須の作業であり、これまでは恐らく多少の学のある女仙が行っていたであろうその作業をつい先日、天羽は自分の仕事として譲り受けていた。実を言えばずっと気になっていたのだ。たとえ手入れが行き届いているとはいえ、女仙たちは多忙である。その上、この宮の主である、天羽の伴侶である大狐は数千年をかけてほとんどの知識を手に入れてしまった為、読み潰してしまった本になどまるで興味はない。書庫の隅で今にも朽ちそうになっている本を前に、それらを愛して止まない天羽が黙っていられる訳がなかったのである。
 天羽の申し出を聞いた女仙の取り纏め役である藍春は少し驚いたように一瞬押し黙ると「羽天様のご負担にならなければ、」と控えめに言い、灼銀はと言えば真紅の瞳を毛皮の中に埋めるように細め「天羽の好きなように」とただそれだけ言った。
 実際、悉く地味だがそれなりに集中力の必要な作業である。決して楽しい仕事だと言い切る人は少ないから藍春は恐らく渋ったのだろうが、天羽の伴侶たる灼銀は流石と言うか、天羽の本質を見抜いていた。天羽にとっては本や書に触れている時間が長ければ長いほど良い。特にこの宮の書庫にある本は下界ではほとんど見られぬ貴重な古書ばかりで、天羽にとっては磨きぬかれた金剛石と毎日触れ合っていると同等と言っても良かった。写本の最中に本の内容を思い返すのもまた楽しく、かの書庫に数え切れぬほどの本が眠っていることを考えて途方に暮れながら自分にも途方もない時間が残っていることを今更不思議に思ったり。

 そんなことをしている内に季節は巡っていた。
 山の色づきは日毎深みを増し、紅葉も風にはらはらと散ろうかという霜月も下旬。外は生憎の曇り空。秋の長雨の季節はもうとっくに過ぎているのだが、何故だか近頃は空のご機嫌が悪い。幾日か雨が降り続いてみたり、こうしてどんよりと重く曇らせてみたり。秋晴れの青空は中々拝めない。

 天羽も今日は障子窓を閉め切って、昼間から行灯の光を入れて作業をしている。薄ぼんやりと淡い光の広がる部屋には先程からずっと天羽が筆を走らせる音と、銀色の毛皮がしゃらしゃらと畳を撫でる音しかしない。
 無意識にその音に耳をそばだてながら、天羽は紅鳶色の髪を僅かに揺らして視線を起こすと、微笑を浮かべた。背の後ろに彼がいる。たまに鳥の声が聞こえる以外は本当に静かな時間だから、恐らく眠いのだろう。優雅に九本の尾を丸め込み、前足を揃えた上に頭を乗せた体勢が容易に想像がつく。けれど、彼は眠ってはいない。一本の尾が途切れることなく、畳の上を往復する。静かな自己主張は天羽に気がついて欲しいからではなく、ただこうして共有している時間が心地良いだけ。それが解っているから、天羽も特に彼を気に留めることなく、静かに筆を走らせている。一文字、一文字、一枚、一枚。気の遠くなるような作業は、けれど続けている内に糸のように織り上げられ、何時しか終わりまで紡がれている。最初から最後まで。ぴんと張り詰めている訳でなく、あくまで気負わず並べられている自分の字が、彼は好きだと言ってくれた。天羽にとっては何でもないことを、まるで特別であるかのように。何時だってそうだ。些細なことも、つまらないことも、彼とともにあれば、それだけで。

「―羽天様、銀紗羅様、失礼しても宜しいでしょうか?」

 僅かな軋みの足音と共に軽やかな鈴の声が響いた。天羽はつと文机から顔を上げて答え、やはり寝そべっていた灼銀も耳を立てて頭を上げる。障子戸に影が映り込み、つと開かれる。顔を覗かせたのは案の定、美しい女性―藍色の髪と同色の瞳を持ち恰も王宮の女官のような知性と慎ましさを湛えた女仙で名を藍春という―で、彼女が膝を突いて一礼すると同時に後ろから幾分緊張した面持ちでもう一人の少女が両手に大きな鉢を抱えて入ってきた。黒い陶器の大鉢を抱えた彼女は慎重な手付きでそれを部屋の中に置くと、灼銀と天羽に一礼し、藍春に目配せすると、静々と出て行った。残された大きな鉢の中には灰がたくさん詰まっており、真ん中では赤々と炭が燃えている。藍春は障子戸を閉め裾を引いて鉢の傍に正座すると、鉄製の火箸で炭を起こした。ぱち、と小さな炎が踊る。その姿に嗚呼、と天羽も合点がいった。

「火鉢か、」

 はい、と微笑む藍春にもうそんな時期か、と感慨深く天羽は思う。
 天羽が元々住んでいた斉の国の王都は元々温暖湿潤な気候だ。確かに真冬ともなれば霜も降りたが、雪が降り積もることはまずなく、火鉢の類は少なくとも師走の末まで出番がなかったというのに。この幽蕾山は高い山だ。たとえ斉の国内にあろうとも平地とは気候に差が出てくる。道理で肌寒くなるのが早い気がしたはずだ。恐らくこの分では雪も降るに違いない。雪か。子供ではないが、幼い頃から滅多にお目にかかることのなかった白い冷たさに何となく胸が高鳴る。

「…藍春や、この炭は何処で入れてきたのかえ?」
「炭、で御座いますか?それは竈で火入れして参りましたが…、」

 銀色の狐は流暢な宮言葉を話す。滑らかだが何処か重みのある主の突然の一声に藍春は困惑したように首を傾げた。灼銀はその巨躯を優雅に起こすと、緩やかな動きで火鉢まで近付き、その灰の中を覗き込む。赤い瞳がまるで見えない何かを咎めるようにじっと火鉢へと注がれた。事情が飲み込めず何やら粗相をやらかしたのかと藍春は僅かに眉を潜めるが、彼はまだ火鉢を睨み続けている。灼銀?と問いかけるように伴侶の名を呼んだ天羽の声に漸く狐はゆるりと顔を上げ、何処となく呆れた色を瞳に映しながら言った。

「火鼠だのう」
「かそ?」

 途端、と火鉢の中の炎が弾けたかと思うと、ぼこっと灰が舞い上がり、灰まみれの真っ黒い鼻先が飛び出した。
 ひくひくとよく動く長いひげに少し長い耳。鼠というより兎のようなそれは真赤に燃えた石のような毛色をしており、その大きさは普通の独楽鼠よりも大分大きい。敢えて言うならそれはやはり野兎ほどもある。けれど、真っ黒に濡れた黒い瞳といい、その忙しなさといい、鼠と言うより他にないその姿で、鼻とひげを盛んに動かしながら辺りを探っている。
 その姿を見て漸く天羽は先程の灼銀の言葉が頭の中で意味のある言葉に変換された。
 「火鼠」は別名を「火光獣」ともいい、火山に住むとされる小妖である。その姿は見ての通りちょっと大きな鼠ほどだが、基本的に炎の中で生活し、人間に害を加えることもない。しかし、火鼠の毛皮は珍重されている。火浣布の材料となるからだ。火浣布とは火にくべても決して燃え尽きることはなく、逆に汚れた場合は途端に美しく甦ってしまうとされる布である。無論、布とは燃えてしまうものであり、それ故に火浣布は大変貴重とされているが、実在しているかどうかも危うい言わば伝承と物語の中の品だった。けれど、火鼠が実在しているとなれば火浣布も強ち伝承のみの存在ではあるまい。
 通常は火山に住むという火鼠が何故こんな火鉢の中に納まっているのかよく解らないが、まあ、と声をあげる藍春と気が付かなかったのかえ?と尾を振る灼銀を置いて、天羽はしげしげと火鼠を眺めた。見た目は普通の鼠―というか兎のようだが、こうして大人しく火鉢の中に入っている以上、普通の鼠では有り得ないだろう。燃えるような色をした毛皮はよく見ればすべらかに長く、ぱちぱちと時折火が爆ぜるような音を出す。真っ黒い瞳は此方をじっと見つめており、これが「火鼠」か、と普通の獣とは眼に見えて違う妖の姿に、未だ昇仙してから日の浅い天羽が初々しく感心していると。

 チィ。

 思いのほか、可愛らしく火鼠が鳴き声をあげた。そして、次の瞬間、何を思ったのか火鼠は灰まみれの身体をふるふると震わせると、火鉢を駆け下り、一目散に天羽目掛けて走り寄ってくる。吃驚したのは天羽もだが、それ以上に藍春と灼銀が声を合わせて自分の名を叫ぶ瞬間を、何処か物珍しく思う方に気をとられて肝心の火鼠を目では終えなかった。
 小さな鼠の妖は本当に何を思ったのか、素早い動きで天羽の膝の上に駆け上ると、後ろ足だけで立ち上がり、チィ、とまた鳴いた。真っ黒い大きな瞳が濡れている。真赤に燃えていた毛皮は火鉢から出た途端に真っ白く輝き始め、熱いと思った身体はそれほどでもない。それどころか、膝の上にいると酷く温かかった。噛み付いてくる訳でもなく、天羽の着物の袖を齧り取る訳でもない。ただ、じんわりと広がる温かさに天羽は思わず警戒心を忘れて、鼠の頭を人差し指で撫でる。火鼠は特別恐れる様子もなく、ただ心地良さそうにひげを広げると、またチィと鳴いた。

「…まあ、珍しい…火鼠が人に懐くなど聞いた事が御座いません」
「そうなのか?」
「はい。あら、まあ、大人しくなって」

 一瞬の驚きから回復した藍春が言うとおり火鼠は天羽の膝の上で大人しく居座っていた。何をするでもない。ただ、此処が自分の居場所だと言わんばかりにちょこんと座り込んでいる。
 動物に好かれるのは悪くない。天羽も特別動物を愛でる趣味がある訳ではないが、散歩に行けば寄ってくる小鳥や庭先に来る栗鼠に木の実をやるのは好いていたから、鼠の小さな額を殊更撫でてやった。見遣れば普通の鼠と違い長い毛に覆われた尻尾がふさりふさりと動く。人間の装飾趣味にとやかく言う権利はないが、これを殺して毛皮を剥ぐなんぞ俺にはできそうもないな、と天羽がつらつらと鼠の黒い瞳を見ながら愛でていると、ゆらりと視界の隅でもう一匹の「動物」が動いた。
 火鼠とは比較するのも可哀想なぐらいの堂々たる巨躯。先程まで沈黙を保っていた九本の尾を持つ最高位の仙狐はすたすたと天羽の傍までやってくると、その前足を伸ばしてぺいっと天羽の膝を陣取っている鼠を転げ落とした。
 天羽の指が空しく空を撫でる。火鼠は一回転しながら天羽の膝の上から落ちていき、ぺそんと無様に畳の上に寝そべった。しかし、そこは小動物のしぶとさなのか、というか何故そこまで天羽に拘るのか天羽自身にも解らないが、鼠はひこっと起き上がると、てこてこまた歩いてきて、天羽の膝の上によじ登った。そして満足そうにひげを膨らませる鼠にまたも灼銀の巨大な前足が伸びる。

 ぺいっ ぺそん てこてこ ぺいっ ぺそん てこてこ ぺいっ ぺそん てこてこ ぺいっ ぺそん てこてこ

「ぷっ…っ」

 四回繰り返したところでとうとう耐え切れなくなったのか、藍春が噴き出した。袂で口を覆い隠しているが、肩が震えに震えているのでどう頑張っても笑いを隠しきれていない。流石に自分のしていることに気がついたのか、灼銀もばつが悪そうに尾を振るうと苛々の矛先を己に仕える女仙に向けた。

「藍春、早う連れて行きや」
「はい…っ」

 しかし、灼銀という名の妖にも神仙にも仕えて早何千年の三光鳥の女仙はその程度では怯みもしない。まだ、笑いを堪えながら天羽の膝の上から嫌がる火鼠を抱き上げ、一礼すると障子戸を開けて出て行った。最後にお騒がせ致しました、と主人に対する非礼を詫びるのと、今宵の夕餉は煮やっことなります羽天様、と献立を伝えるのは忘れなかったが、如何せん表情が引き攣っている。じたばたとその腕で暴れる火鼠は最後まで名残惜しそうにチィと鳴いていたが、やがて藍春が部屋から遠ざかっていくとその声は聞こえなくなった。
 何となく罪悪感に囚われる。愛らしかっただけに鳴き連ねる鼠を見送るのは少し胸が痛いが、まあ、あの様子では藍春も鼠だからと手荒に扱いはしないだろうし、恐らく普段は竈の中にでも住んでいるのだろう。後で藍春に確認してみればまた見に行けるな、と考えて天羽が視線を戻すと、その膝の上にとかっと獣の頭が乗っかるところだった。鼠のように全身で乗るという訳にはいかない。黒い鼻先をひくと鳴らし、ひげと耳をそよがせながら天羽の愛する獣が、不貞腐れたように目を閉じながら人の膝を枕に寝転がっていた。

「灼銀、」
「主は我の伴侶だと思うたが」
「お前な、相手は鼠だぞ?」
「故に余計腹立たしいのう…高々火鼠の分際で天羽の指を受けるとは…」

 ばさっと彼の興奮を表すように九本の尾が広がる。どうも天羽にはよく解らない妖の理屈があるらしい。天羽が小鳥や栗鼠を愛でる時には何も言わずに横で寛いでいる癖に。自身の伴侶が嫉妬深い事は重々知っているつもりだったが。こうなると何だか子供じみた独占欲に似て、可愛らしいような厄介なような―否、やはり心の底ではその一度間違えば闇にも囚われてしまいそうな感情を喜んでいる自分がいる。全く、人のことは笑えない。

「やはり頭から食ろうてやれば良かったかのう…」

 物騒な呟きが狐の口から漏れる。天羽はほぼ無意識に目を細めながら、彼をたしなめる言葉を紡ぐ。

「神仙は殺生御法度、精進あるのみだろう?千年の功徳を無駄にする気か?」
「主の為とあればそれも厭わぬ」

 間髪を入れず彼は答えた。
 獣の赤い瞳は細く開いて虚空を見つめ、その色は何時だって怖いぐらい本気で、嗚呼、と天羽は、その唇に笑みが浮かぶのを止められない。彼の首筋から耳の付け根までゆるやかに撫でると、瞳が宙を見るのを止めて細くなる。白銀の麗しい毛皮を持った彼の姿は無論人間のそれとは全く違う。けれど、人とは違う異形のものを伴侶とした後悔は何時だって天羽には一片足ろうともないのだ。だって、天羽は知らない。ここまで自分を愛しいと言ってくれる存在を。本当ならばただの取るに足らない妓楼の息子であった自分を仙として迎え上げ、ここまで言葉を尽くし、身を尽くし、愛してくれる存在を。
 天羽は頭を落とし彼の濡れた鼻先に唇を落とす。ぱさりと銀色の尾が揺れる音がして、自分の頭を撫でたのが解った。彼は理解しているだろうか。彼が天羽を想うように、また天羽も彼を想っているのだと。天羽にはこの神仙のように捨てるものや捧げるものなど何もない。けれど、何時だって、この身一つで、彼を愛し慈しみ共にありたいと、思っていることを。

「指は兎も角、この唇はお前以外にはやらないよ、灼銀」
「無論…それは我も同じや」

 同じ想いを抱えていれば、同じ刻を。
 火鉢の中で炭が崩れる。窓の外を吹く風は、天羽がこの場所で、この愛しい伴侶の傍で、初めて過ごす冬の気配を連れて来ていた。


07/11/30

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