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嵐の夜に~落花雨の銀狐編~

 瓦屋根を雫が叩く音がする。重たい雨戸を引き開ければ、生ぬるい風が顔に吹き付けた。嵐が来るのかも知れない。降りしきる霧のような飛沫を顔に受けながら、女はぼんやりと曇天を見上げた。
 雨が降れば思い出す。まだ苦界に身を沈めてほんの少しだった頃。擦れていない初々しさを買われてか、妓楼の若旦那に充てがわれたことがあった。緊張のあまり身を固くした娘に、しかし彼は一瞥をくれただけで一切手を出そうとはしなかった。視線は手元の書にのみ送られ、行灯一つの部屋に聞こえるのは紙を捲る音と雨音だけ。恥をかかされたと言うほど、こなれてはいなかった。ただ、男なんて皆好色だと思い込んでいた娘にとって、それは経験したことのない不可思議な静寂だった。手持無沙汰に眼前の若者をそっと観察したことを憶えている。細い肩、紅鳶色の髪、男にしては長い睫毛、それに縁取られた飴色の瞳。

「姐さん、そんなところでなにしてます?濡れちまったらお可哀想や」

 背後からかけられた声に我に返る。何でもないという風に頭を振って、そっと雨戸を引き締めた。
 ある夜、若旦那が一人の妓女と共に忽然と姿を消してから早五年が経とうとしている。
 大旦那はようやく手をかけていた番頭の一人を跡取りに決めた。息子を突然失った虚脱感からかどっと老けたように思える男は、そろそろ一線を退こうとしている。時の移ろいは残酷で、消えた人は死んだも同じ。若者と妓女の逃亡劇は戯曲でも悲劇にしかならない。彼らが無事逃げおおせたとは誰も思わない。けれども女は、女だけは知っている。若旦那が魅入られたのが「なに」なのか。
 雨が降って、また降って。
 煙るように包むように降りしきる細い雨の中。舞い踊るのは美しい銀の髪の女ではなく、一頭の獣。並んだ牙、尖った耳、柔らかな毛並みの尾を幾つも幾つも持っている。白牡丹の花が零れる。その様は組み敷かれた男の白い首筋にも似て。
 裾を引き、湿った畳を踏みしめながら女は艶然と笑う。
 きっと誰も、大旦那ですら知らない彼の秘め事。きっとあの美しい人は美しい獣と共にこの一つ空を見上げていると、彼女の直感がそう告げていた。閉じた瞼の裏には、透明な白日夢がかつての輝きのままに瞬く。白銀の毛並みに寄り添う柔らかい紅はさぞや美しいだろうと夢想して、強くなる一方の雨に背を向けた。嵐が来ようと関係ない。表門の提灯に火が入れば、今宵も猥雑な妓楼の長い夜が始まろうとしていた。


「嵐の夜に」


2015/03/14

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