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その他 「足さえあれば」

毎日暑いのでなんちゃってホラー。約1900字。



 昼間の熱気は日が暮れてからも一向に退かず、計器の針を振り切らんばかりの湿度も相まって、いよいよ蒸し器の様相を呈す。盛夏、猛暑、酷暑。単語のインフレは止まらなくとも、社会人に夏休みなど存在しない事実には変わりない。
 じっとりと首筋を濡らす不快な汗は伝い落ちるほどでもなく、ゆえに拭う気にもならない。ひたすらに両足を動かして家路を急ぐ。頭に思い浮かぶのは冷蔵庫で冷えている水出しの麦茶とか夏の必需品と化したクーラーとか逆になぜか熱いくらいが嬉しいシャワーとか、そんなものばかりだ。
 羽虫が踊る様が闇夜に幻のように浮かぶ。線路沿いから川沿いの土手の上を歩く道に入り、夜道が一層深くなる。鉄塔の根元に生い茂る草木、脛を撫でる背丈の高いそれを避け、ふっと吐いた息は生ぬるい。いよいよ住宅街に分け入れば、家々の窓から抜ける橙色の光は目に優しい。それとは裏腹にアパートの階段を照らす蛍光灯は冷え冷えするほど青白かった。
 昼間、太陽の光の下で見ればクリーム色とブラウンに塗られているはずの外壁は闇夜に白く浮かび上がって見える。鉄筋コンクリートの三階建て。上階に伸びる階段は二ヶ所あり、そのいずれの一階部分にも壁に備え付けた箱型の消火栓があった。
 その赤が妙に、赤い。
 闇夜に沈む景色と蛍光灯の対比のせいだろうか。真っ赤に塗りたくられた四角い箱に普段は着目することなどなかろうに、思わずまじまじと凝視してしまったのがおそらく運の尽き。
 そこに「あってはならないもの」を「見る」。
 遠目にも青黒く変色した皮膚がはっきりと確認できた。足だ。それも女の足だ、となぜか確信した。「それ」には足首から上なんて存在していないというのに。
 土手からアパートまで十メートル以上あるにもかかわらず、まるで目の前にあるかのように「足だけの何か」は観察することが出来た。無数のすり傷、陥没したような黒いあざ、甲も低く小ぶりな大きさに比べて指が長い、その指先に付いた小さな爪は折れているか、または剥がれていた。
 思わず足を止めてしまっていた。無意識の行為だったが、異質なものに対して好奇心のままに興味を差し向けるのは本来はきっとやってはいけないことなのだろう。
 なぜなら、それがふと、こちらを向いたから。
 足首から下だけの足が、きききっとぜんまい仕掛けの人形のようにぎこちなく動く。左足、それから右足。「それ」は間違いなく、真っ直ぐと、見ている。「私」を。
 ぞわっと鳥肌が立った。そこには人の姿などないはずなのに、確かに「目が合った」気がした。
 止めていた足の動きを再開する。消火栓から無理矢理目を引き離し、改めて帰路を急ぐ。
 どろりとした冷や汗が背を流れた。不快な湿気が頭の周辺にまとわりつき、息苦しい。重たい空気の塊をかき分けるように進み、白々しい街灯の下を早足で抜ける。こういう日に限ってすれ違う人もいない。
 土手沿いの道を降り、右手を土手、左手を民家に挟まれた細い道を進む。一方通行の道に当然ひと気はなく、けれどしばらく進めばようやく我が家が見えてくる。
 築年数の浅い単身者用のアパートはなるべく死角作らないように配慮されているようだった。格子状の柵は足元まで丸見えだし、剥き出しの郵便受けや玄関ドアはオレンジ色の照明で明るく照らし出され、思っていた以上にほっとしている自分に気づく。
 変なものを見た。でも、ただそれだけだ。
 階段を昇る。鞄を探り、鍵を取り出す。コンクリート製の階段は足裏への感触も堅実で、それは廊下も同様だ。
 最早意識せずとも行える、ルーチンと化した動作で鍵を開ける。カチャンと甲高い音がし、西日の名残によってぬるくなったドアノブを回した。
 薄く開いたドアの隙間から生温かい空気が流れ出し、同時に嗅ぎ慣れた自宅の匂いに安堵する。「ただいま」と誰に言うでもなく小さく口に出す。サンダルや傘立てが乱雑に置かれた狭い玄関で靴を脱ごうと下を向いたところで「それ」に気が付いた。
 ひやり、と空気が冷える。どうして、と出口のない問いかけが脳内を駆け巡り、あっという間にパニックになる。そこにあったそれは、だってあそこにいたじゃないか。あそこにあったモノがどうして私よりも早く家に、いや、そんなことよりその青黒く変色した皮膚、剥がれた爪に乾いた血の色、それから鼻先をかすめる生臭い匂い、それに。
『おかえり』
 それきり私は気を失って、次に意識を取り戻したときには着替えもせずにベッドに横になっていた。
 どうやって玄関からここまで来たかなんておぼえていない。思い出したくもない。ただ、朝にしてすでに苛烈な日差しを受けながら、どうやって家の外に出ようか、そればかりを考えている。


2019.08.10

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