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現代帝都 八つ足お八つどき

現代帝都/約1700字/神山火焔と神山神楽と八蘇




 ただの虫の姿に身をやつせば、抜き足差し足などしなくても、カサリとも音を立てず進むことができる。とはいえ、握り拳大の蜘蛛が濡れ縁を我が物顔で歩くのだ。大の大人でさえ頬の一つも引きつりそうなものだが、ここは天下の神山のお屋敷。白いエプロンを着けた女中といえども、微笑んで道をあけてくれる。
 自慢ではないが鼻は利く方だ。
 客間に到着すると、ちょうど客人が辞すところだった。にこやかな笑みを浮かべて見送る女主人がぴくりとも立ち上がる素振りを見せないとなると、大した客ではないようだが。
 とはいえ、人間社会の習わしとして必要最低限の礼儀は保つものなのだろう。ぺこぺこと盛んに上下しながら廊下の奥へと向かった禿頭が完全に消え、遠く引き戸の閉まる音がする頃合いになって、ようやく客間に緩んだ空気が満ちるタイミングを見計い、八蘇は口を開く。
「神楽ちゃん!それお土産?お土産?」
「あら、八蘇」
「はしたないぞ、八蘇」
 今の今まで客間の隅でさながら蜘蛛のように気配を消していた八蘇の主、神山火焔がのそりと口を開く。一つにまとめた漆黒の髪に切れ長のまなこを持つ彼女は背格好だけ見れば、神山神楽によく似ている。それがいざというとき、彼女が最も愛する姉の身代わりをかってでるためだと、屋敷に住まうものは誰もが心得ていた。
「綺麗な菓子折ねえ。開けちゃいましょうか」
 お菓子に罪はないもの、と言い添えて神楽はするりと箱にかかった紐を解く。待ちきれない八蘇が卓袱台の上に飛び乗れば、主人が柳眉をひそめたのがわかったが、今更だと思ったのか何も言われなかった。
「まあ立派」
「どら焼きだー!」
 歓声をあげた拍子にくるりと一回転して人の姿をとる。蜘蛛のままではさすがに菓子を食べるのもままならない。
 正方形の浅い紙箱に納まっていたのは丸い生地をキツネ色に焼いて、間に餡子を挟んだ定番の菓子だった。鼻先をくすぐるのは蜂蜜の優しい甘い匂い。中央に押された焼き印の屋号は「兎堂」。浅草に本店を構えるその店は、広く知られた老舗の和菓子店の一つだ。名物は餡子を使った菓子全般で、大福などの昔ながらの餅類に加え、当然、どら焼きもその末席に名を連ねている。甘すぎない餡子とふわふわの生地の塩梅は絶妙、と女子供をはじめとし、文人、芸術家、お役人、そして当然妖怪たちにも大好評。ああ、思い出しただけで生唾が。
 今にも飛びかからんばかりの八蘇を慮り、神楽はにこりと微笑んだ。冷徹一辺倒とも思われる彼女だが、それはあくまで神山家の当主としての態度。身内に関しては母性ともいえる慈愛を発揮するがゆえ、彼女は多くの一族郎党に慕われている。
「先に食べててもいいわよ」
「いいの!?」
「一つだけね」
 そう言って徹頭徹尾優美な雰囲気を崩さない神山家の当主は静々と客間を出て行った。屋敷には無数の女中も控えているというのに、彼女は自分の手を煩わすことを厭わない。きっと台所に茶を淹れに行ったのだろう。礼儀作法に厳しい分、そういう準備もきっちりこなす性分なのだ。
 許可を得た以上は遠慮することもない。
 八蘇は箱の中にお行儀よく並んだどら焼きをしばし吟味し、やがて一際艶やかで大ぶりの一つを取り上げた。とはいえ、それはあくまで八蘇の主観による判断であって、老舗のどら焼きはそれはもう機械的なまでに大きさ形が整っていたのだけれど。
 手にした菓子が指の腹に押し返す弾力が嬉しい。両手で持ってぱかりと割れば、黒々と闇の煮こごりに煮た餡子が顔を出す。ほどよく潰れた小豆は口の中で溶け、残った皮の味わいまで滋味深いだろう。おっと、思い描くだけで涎が。
「火焔ちゃん、はい。はんぶんこ」
「え?」
 唐突に目の前にどら焼きを突き出された主人は目をまん丸にした。普段あまり感情を表に出すことのない彼女にしては珍しい表情に八蘇も首を傾げる。
「どら焼き、食べない?」
「いや、お前が食べれば……いや、うん、もらうよ」
 何かを言いかけて、思案して、引っ込めて、結局火焔は八蘇の手から半分のどら焼きを受け取った。それを満足げに見届けてから、八蘇は自分の手に残った菓子を口の中に放り込む。
「おいひー!ふわふわ!」
「……そう」
 よかったな、と緩く微笑む主人にうん!と満面の笑みで返せば、彼女もつられたように笑みを深めた。

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